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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風 タイ人の暮らしと文化

2016.09.20

【チャオプラヤー川に吹く風(42)】バンコクの二つの記念塔

齋藤 志緒理

民主記念塔
民主記念塔(2013年10月 筆者撮影)
戦勝記念塔
戦勝記念塔(2015年5月 筆者撮影。同年4月2日にタイ王室のシリントーン王女が60歳の誕生日を迎えられたことを寿ぐため、記念塔の前に同王女の肖像写真が掲げられていた)

タイ国の首都バンコクには、二つの大きな記念塔があります。一つは王宮やエメラルド寺院などに近いラチャダムヌーン通りの「民主記念塔」、もう一つはパヤタイ区にある「戦勝記念塔」です。

どちらの記念塔もバンコク市内のランドマークであり、周囲は大きなロータリーになっています。車で通過する頻度は高く、ロータリーに面したバス停の利用客も多い場所です。

まずは、二つの記念塔の概要を簡単に紹介いたしましょう。

●民主記念塔(1940年完成)

1932年6月24日の立憲革命を記念して建立された記念塔で、1939年の同日に定礎し、翌年(同日)に完成となりました。中央の塔の頂の箱には憲法典が納められ、中央塔を囲む4つの翼は民主制への飛躍を表現しています。1932年は仏歴2475年にあたるため、周囲には75基の大砲が配置され、翼の下部には人民党員の活躍を描いた絵があります(赤木攻による解説『タイの事典』1993年、同朋舎より)。

●戦勝記念塔(1941年完成)

1940年11月末に発生したタイとフランス領インドシナとの国境紛争で、タイ陸軍はカンボジアに侵攻、海軍もフランス軍艦と交戦し、大きな損害を受けました。日本が調停に入り、紛争は2カ月後に停戦。戦死したタイ陸海空軍将兵や警察官らを慰霊するための記念塔が建立され、翌1941年の革命記念日(6月24日)に除幕式が行われました(吉川利治による解説、前掲書)。事実はタイ側の勝利ではなく「停戦」でしたが、ラオス2州、カンボジア西部2州の失地を回復したことを「戦勝」と位置付けての命名です。

筆者が初めて二つの記念塔を目にした時、民主記念塔については、四隅の構造物が翼を示すといったデザインの意図を学んでいなかったこともあり、不思議な形をした塔だなあという印象をもちました。

戦勝記念塔の方は、天を衝くようなモニュメントの形や、銃を手に立つ兵士の像から、より直截的なメッセージを感じました。例えるならば、植民地だった国が宗主国から独立を勝ち得たのを記念して建てた銅像のような「国威発揚」のイメージです。実際には、タイ国は西欧列強の植民地にはならず、否が応にも国民の民族意識が引き出されるような歴史的局面は経ていません。一体なぜ国威をことさらにアピールするような記念塔が必要だったのか・・・という疑問を抱きました。

その答えは、二つの記念塔が建設された時代背景にあります。両記念塔は1940~1941年に相次いで建てられていますが、これは1932年の立憲革命によって「タイ民族主義」が高まった時代であり、時のピブーン・ソンクラーム政権が「プラテート・タイ」(英名:Thailand)を正式国名とした事跡(1939年)とも呼応します。

本連載(4)「タイ」と「シャム」~揺れ動いた国名――でも触れたように、ピブーン首相は「汎タイ主義」を掲げて、タイが(近隣諸国に居住するタイ族も含めた)タイ系民族の盟主たることを標榜し、西洋諸国やアジアの周辺国で呼称されてきた国名“Siam”を“Thailand”に変えました。その際、「タイは “自由”を意味する」との解釈が喧伝され、国名変更の意義が国民に示されました。

二つの記念塔の建築は、こうした歴史的文脈の中でとらえると、よりくっきりとその意味合いを理解することができます。

ところで、何の授業であったか、筆者が在学していたチュラロンコン大学大学院の教授が、両記念塔について触れ「民主記念塔、戦勝記念塔はイタリアのファシズム芸術の影響を受けている」とコメントしたことがあります。それ以上の説明はなく、「イタリア」「ファシズム芸術」という二つのキーワードが筆者の中で疑問符として残りました。

後年調べてみると、二つの記念塔の制作には、コッラード・フェローチ(タイ名:シン・ピーラシー)というイタリア人彫刻家が携わっていること、そしてこの彫刻家が「タイ近代美術の父」と呼ばれ、草創期のタイ国立芸術大学(シラパコーン大学)にも大きく寄与した人材であったことがわかりました。

次号では、このフェローチなる人物がタイ近代美術史に残した足跡を取り上げます。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE
津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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