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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風 タイ人の暮らしと文化

2016.10.17

【チャオプラヤー川に吹く風(43)】タイ近代美術の父 コッラード・フェローチ(シン・ピーラシー)

齋藤 志緒理

バンコク・トンブリ地区、ワット・パークナーム寺院の仏像と壁画。壁の上部には仏教を題材とした伝統的な絵が、その下には王族の肖像画が描かれている。(筆者撮影)
バンコク・トンブリ地区、ワット・パークナーム寺院の仏像と壁画。壁の上部には仏教を題材とした伝統的な絵が、その下には王族の肖像画が描かれている。(筆者撮影)

前号では1940年、1941年に相次いでバンコクに建立された二つの記念塔「民主記念塔」と「戦勝記念塔」を紹介し、その制作に携わったのがコッラード・フェローチ(Corrad Feroci:1892-1962)というイタリア人彫刻家であることに触れました。今号では、フェローチがタイ近代美術史に残した足跡に注目したいと思います。

●近代前夜のタイ国の美術

フェローチの業績を解説する前に、まず近代以前のタイの芸術がどのようであったかをおさえておきましょう。

タイ国の伝統的な美術は、寺院の壁画に代表されるように、仏陀の生涯と教えを民衆に伝える目的で制作されたものでした。仏教美術の需要は非常に高く、彫刻の分野でも、仏教的な様式が主流でした。

そうした伝統的な絵画や彫刻は、芸術作品として意図されたのではなく、「宗教的」「倫理的」な文脈の中で形づくられたものでした。画家や彫刻家は「創造者」とはみなされなかったため、当時のタイ語には「芸術家」という呼称はなく、画家・彫刻家を指すには「職人」という言葉が用いられました。

●近代芸術への過渡期

こうした伝統に変化が現れたのは、ラーマ4世(在位1851-1868)の治世です。西洋の版画と写真に接した宮廷画家のクルワインコーンは、自分の作品に空間概念を取り入れ、風景や建築物、人物の描写に遠近法を使い始めました。

次代のラーマ5世(在位1868-1910)は、近代化を推し進めるべく、病院、学校、道路、鉄道、上水道、電力供給などの公共事業や、西欧的な宮殿の造営などを積極的に行い、これらの事業は多くの「お雇い外国人」(ヨーロッパ人技師や芸術家)に活動の場を与えました。芸術面では、国王の1897年と1907年の2度にわたるヨーロッパ巡遊を契機に、イタリアとタイの文化的結びつきが強まり、イタリア人建築家や画家、彫刻家に仕事が発注されました。

1904年には、イタリア人のセザーレ・フェッロという画家がラーマ5世の肖像画を依頼されます。そのセザーレに師事して肖像画の技法を学んだタイ人画家、プラ・ソーラーラックリキット(Phra Soralaklikit:1875-1958)はラーマ5世の2度目の欧州巡遊に同行し、帰国後は国王夫妻や王族の肖像画を描く役目を与えられます。

また、ラーマ5世の異母弟であるナリット親王(1863-1947)は、イタリア人、カルロ・リゴーリが宮殿や寺院などの天井画や壁画を描くにあたり、その構想をまとめて監修しました。これらの絵画には、タイ的な主題と西洋の描写技術との融合がみられるといいます。

近代美術の波が及ぶ前のタイ国では、伝統に則って制作された装飾的な作品が主流でしたが、西洋的な技巧や手段が導入されるにつれて、個々の芸術家が創意工夫を図り、より個性的な作品が生み出されるようになりました。

●コッラード・フェローチの登場

イタリア人彫刻家、コッラード・フェローチがイタリア政府の協力のもと、タイに渡ったのは、ラーマ6世(在位1910-1925)の治世の終盤、1923年のことでした。フェローチはタイ王室の依頼を受けて、ラーマ6世やナリット親王の胸像を制作し、タイ人にも西洋彫刻の技術を指南しました。

その後、自国の彫刻家養成の必要性が増したことから、1933年に美術学校が設立され、フェローチが西洋の教育課程を導入して指導にあたりました。1937年の第1期卒業生の多くが、フェローチとともに「戦勝記念塔」のための人物像を制作しています。フェローチ自身がフィレンツェの美術アカデミーの出身であったため、タイの教え子たちの作風も、当時のイタリア芸術の影響を受け、全体的に写実主義的・印象主義的なものでした。

1943年に美術学校は大学に昇格し、「シラパコーン大学」となりました。大学創設時には絵画と彫刻の2部門から成る芸術学部のみが設置され、フェローチが初代学部長となりました。

●帰化、そして「伝統と現代美術の調和」へ

大学昇格の翌年、フェローチはタイ国籍を取得し、Silpa Bhirasri「シン(シラパ)・ピーラシー」と改名します。そのきっかけは、第二次世界大戦を枢軸国側で戦っていたイタリアが1943年9月に連合国側に降伏したことでした。当時タイ国内には日本軍が駐留し、連合国軍の捕虜やアジア人労務者などを使って泰緬鉄道(タイ・ビルマ間の鉄道)の敷設を行っていました。熱帯ジャングルの厳しい環境下で、多数の死者を出した過酷な建設工事でした。フェローチがイタリア国籍のままであると、捕虜となって使役される可能性があり、帰化してその身を守ることが切迫した目的だったといわれます。

シラパコーン大学で初代学部長に就任したシン・ピーラシーは、その直後に古い遺跡を修復する任を与えられます。事業遂行にはタイ旧来の美術への理解が不可欠だったため、新大学のカリキュラムを組む際は、伝統美術の復興も視野に入れました。しかしながら、伝統的なタイ美術の模写や模倣の行き過ぎには反対で、伝統美術と現代美術の調和を目指し、双方の振興に努めました。

(ここまでの主な参考文献:福岡市美術館編『東南アジア―近代美術の誕生』1997年, p.148-152)

●イタリアの「ファシズム芸術」とシン・ピーラシー

前号で、筆者がタイで受けた授業中、教授が「民主記念塔、戦勝記念塔はイタリアのファシズム芸術の影響を受けている」とコメントしたことを書きました。この点について少し付言しておきます。

「ファシズム芸術」の様式とは、ファシズムの認める作品、ひいてはムッソリーニと権力者たちの意向に追随した作品を指します(田之倉稔『ファシズムと文化』山川出版社,2004年, P.73)。

イタリアでファシズムが台頭した1920年代、ファシズムに傾倒する芸術家のグループは「ノヴェチェント」と呼ばれ、主に英雄や労働者をモチーフとした絵画作品を発表しました。彼らは反前衛と愛国主義をモットーとしており、イタリア・ルネサンスの作品に範を求め、写実的なスタイルを好みました。(苅谷洋介による解説「現代美術用語辞典 1.0」,大日本印刷のウエブサイト「アートスケープ」)

シン・ピーラシーは、ムッソリーニ政権のもとで、銅像制作に従事しており、1922年には、トスカーナ州ポルトフェライオで戦没者記念碑を建てています(Thanavi Chotpradit,“Revolution versus Counter-Revolution: The People’s Party and the Rolyalist(s) in Visual Dialogue”Birkbeck, University of London, 2016, p.102-103)。

1938年に首相に就任したピブーン・ソンクラームは、ナショナリズム高揚のため、芸術をプロパガンダとして利用しました。タイ政府の肝煎りで美術学校の指導者となった彫刻家フェローチが重用されたのは、こうした趨勢の中であり、「民主記念塔」「戦勝記念塔」などの当時の作品にも「文化ナショナリズム」が投影されました。制作にあたって彼が採用した技法・様式が上述のイタリアの「ファシズム芸術」につながるものだった…という意味では、「フェローチ=ファシズム芸術の体現者」という一面の評価が成り立つのでしょう。それが「ファシズム芸術の影響を受けている」という教授の言だったのではと、理解しています。

シン・ピーラシーは1962年にタイで70年の生涯を閉じました。かつてムッソリーニ政権の意向を受けて働いたという経歴は、戦後の新しい価値観では、彼の業績の中の「汚点」と見なされるかもしれません。しかし、タイ美術界の発展に尽くしたその圧倒的な功績を前に、「タイ近代芸術の父」シン・ピーラシーは生前も没後も国民に称えられる存在であり続けています。

1992年には生誕100周年を記念して記念切手が発売され、誕生日である9月15日が(祝日ではありませんが)「シン・ピーラシーの日」に定められました。シラパコーン大学の構内には彼が使用した工具や作品などを展示する「シン・ピーラシー記念国立博物館」(創立1987年)もあり、タイの近代美術を知る一助となります。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE
津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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