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2019.02.18
一色 顕
一年中で最も寒い季節になり、会社員は仕事が終わると一目散で駐車場に向かい、帰途についてしまう。レストランに立ち寄ろうと考える人はいない。今がレストランの経営者にとって最も苦しい時である。ビラを撒こうが、立て看板を出そうが効果はない。道には人影がないのだから手の打ち用が無い。
そんなある日の午後、店の前に1台のタクシーが止まり、二人の女性が来店した。私がメンバーになっているロシアンクラブの幹事エレナ・ルビンスキーさんが、娘のキーラを連れて来店してくれたのだ。テーブル席ではなくカウンター席に座りながら、『ランチは済ませました』と言って、熱燗の日本酒を所望してきた。
いつもと様子が違う。母親のエレナは暗い顔、娘のキーラは目を泣きはらしていた。『どうしましたか?』と聞いてみると、『お酒を飲みながら、お話し致します』とエレナが答えた。
飲み始めてから数分後、エレナが『娘は結婚するつもりで、ボーイ・フレンドと同棲していましたが、彼は昨日突然娘に“別れましょう。僕はヘルシンキで就職口を見つけた”と言って、身の回りの品を車に載せて逃げて行ってしまったのです』と語り始めた。
エレナは30年程前、タンペレ(フィンランドで2番目に大きな町)で、貿易商を営んでいた資産家のルビンスキー氏と結婚し、25年前にキーラを産んだ。この間にベルリンの壁は破れ、ソ連邦は崩壊してしまった。それまで、街で威張っていたロシア人はマイナー市民となり、仕事もやりにくくなった。
そこでルビンスキー氏は家族を残してモスクワに行った。遣り手の彼は新しい仕事でも成功したが、知り合った女性と結婚することになり、エレナとは離婚してしまった。
キリスト教は、ローマ帝国が東と西に別れたのち、後を追う様に東西に分裂した。以後、東はオーソドックス(正教)、西はカソリックと呼ばれるようになった。ルビンスキー氏の宗旨であるロシア正教は、カソリックと違って、離婚には寛容であった。その分、社会通念として、妻には応分の財産が分与された。(英国のサッカーチーム「チェルシー」のオーナーであるロシア人のアブラモビッチは、離婚するために1兆3500億円を妻に支払った)
ポリの郊外にあるルビンスキー宅は、日本における「母子家庭」のイメージとは全く違い、まるで企業が所有する軽井沢の別荘のようであった。何年か前、ロシアンクラブの会合で、メンバーの一人が『私は父から“結婚するなら力持ちか金持ちを選べ。色男はダメだ”と頻繁に言われました』と言ったのを想い出した。
キーラはフィンランド人のボーイ・フレンドと婚約するために、正教からフィンランドの国教であるプロテスタントに改宗しようとする矢先だった。プロテスタントは宗教改革が行われた16世紀に、カソリックから分離して、新教と呼ばれるようになった。その教義においては離婚に関する文言は無く、その可否は世俗法にゆだねられた。
現在、婚約は結婚と違って、破棄された場合に、財産分与は認められぬものの、精神的苦痛を受けたとして慰謝料の請求は可能である。しかし、キーラの場合は婚約前であったために、「同棲していただけ」の関係であったから、宗教的にも世俗法においても何の償いもなされはしない。エレナもキーラもやり場の無い怒りに、打ちひしがれていたのだ。婚約式が影を潜めた今でも、結婚の一手続きと見なされているので、婚約はまさに人生の分水嶺なのだ。
二人の顔がお酒でほんのりと赤らんできた時、私は二人に『改宗や婚約をする前に、薄情な男と別れられて、キーラは幸運でしたね。きっとキリスト様が、分水嶺を越える前に、キーラをお救い下さったのでしょう』と言ってあげた。
二人の顔は一変して、笑顔になった。私はダメを押す様に、二人とお祝いの乾杯をしてから、呼んであげたタクシーに乗せて帰宅させた。チップの習慣が無いフィンランドなのに、エレナはカウンターにお札を置いていってくれた。
店内に戻りその紙幣を見ると、ここ数年見た事が無い500ユーロ(6万円相当)札であった。結果はオーライだったが、口から出任せを言っただけで、法外な礼をもらい「罰が当たらないか?」と、ちょっと心配になった。
もし日本のように「婚約内定」と言う、「屋上・屋を重ねる」ような言葉があったら、こうは上手く行かなかったであろう。
一色 顕
Akira Isshiki
早稲田大学卒業。新卒でソニー株式会社に入社。8年間の在籍中、TV部門のグローバルロジスティクス&プロキュアメント部門にてサプライチェーン構築を担当。後半4年間は、欧州向けTV開発・製造を担うソニースペイン・バルセロナ工場(社員:1,300人)に駐在。帰国後、株式会社リンクアンドモチベーションに転職。研修部門の運営責任者として講師育成・プログラム開発に携わるかたわら、自らも講師・ファシリテーターとして経験を積む。2010年、M&Aした会社のPMIに関わり同社の代表取締役に就任。2011年に同社の業容を拡大し、株式会社リンクイベントプロデュースに社名変更。4年間で売上高を3倍に伸ばす。2016年1月、株式会社リンクグローバルソリューション代表取締役社長に就任。