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2017.07.31
藤崎 照夫
このコラムの読者の方々の中には「インド人は子供でも二桁の掛け算が暗算で出来る」とか「最近子供を数学と英語の力をつけるためインド人の子供の通う学校へ入学させる日本人の親御さんがいる」といった話を耳にされた方がいらっしゃるのではないかと思います。今回はそのインドの教育制度や世界的に活躍するインド人を輩出する背景などについて話を進めて行きたいと思います。
1)インドの教育制度の概要
インドの教育制度は下記のような仕組みになっています。
・初等教育 :小学校に相当する一年生から五年生
・上級初等教育:六年生から八年生でミドル・スクールと呼ばれる
・中等教育 :高校に相当する九年生から十年生
・上級中等教育:プラス・ツーと呼ばれ修了すれば高等教育への進学資格が得られる
・高等教育 :カレッジと呼ばれる大学、およびユニバーシティーと呼ばれる大学院から成る
2001年の国勢調査の数字ではインド全国に3万5千校以上のカレッジとユニバーシティーがあり、登録学生は2,000万人に達しており学生数はなおも増加傾向にあると言われています。ピラミッド型の人口構成を形成する人口大国のインドならではと言えるのではないでしょうか。1980年代以降の初等教育の充実の端緒を作ったのが、インディラ・ガンジ-で学校を増やし、無料の給食等も導入しました。
2)飛び級制度
インドでは飛び級制度というのがあります。その典型的な例として語られるのが1930年にノーベル物理学賞を受賞したC.V.ラーマンで12歳で大学入学資格を得て、13歳で地元のカレッジに入学しています。あまりに若いので授業をしていた教授が近所の少年が教室に迷い込んだものと勘違いしてしまったという逸話が残っているそうです。日本でも飛び級という制度はあり、文部科学省は「飛び入学」という名称で呼んでいますが高校に2年以上在学したことなどをその条件と定めているそうでこれでは殆ど「飛んだ」ことにはなりませんね。
3)インド工科大学
インドはイギリスから独立した後、初代首相ネルーのリーダーシップで先端的な高等教育機関を設来立すべく準備を進め、1961年に工科大学法を制定して、学部と大学院を備えたインド工科大学(Indian Institute of Technology 以下IIT)を設置しました。2015年時点でインドの18ヶ所 にキャンパスが設けられておりこの中には2008年日本政府の肝いりで開校したIITハイデラバード校も含まれています。これらのIITはインドの知識集約型産業に有為な人材を輩出するとともに、海外のIT企業に大量の人材を供給してきました。
IITはインドの最難関校というだけでなくハーバードを含む欧米の超一流校より入学が難しいとさえ言われています。卒業生の何割もが外国企業に就職して頭脳流失する一方、逆にこの大学群の存在が若い人材の海外流出に一定の歯止めをかけているという評価もあるようです。私は数年前にインドに進出しているある日系企業がこのIITの在学生を日本に招待し6ヶ月の間日本文化と製造現場を学んでもらうというプログラムで来日して最初の日に「異文化研修」という内容の講師を務めたことがあります。
丁度その時インドの航空会社のストライキがあり当初予定の5名の内1名が参加出来ず、4名のIIT生に自分自身のインドでの10年近い駐在生活を通じて経験したインド文化と日本文化の違いなどについて話をしましたが、あるテーマ―でグループに分かれて問題点の分析、原因の把握、対応策等を発表して貰いましたがその内容は我々の想像以上の出来栄えでした。
7時間を超える研修でしたが彼等はいずれもオープンマインドで好奇心が旺盛で研修後私は「日本の一般的な大学生ではとても太刀打ち出来ないだろう」とIITの学生の優秀さを実感したものです。
このIITの卒業生に世界のトップ企業の採用責任者が青田刈りにやってくるそうで、勿論IITのトップレベルの学生が対象でしょうがオラクルが初任給約4千万円、グーグルが約3千2百万円、フェースブックが約3千万円のオファーをしたという噂が流れたそうです。私自身も韓国のサムスンが初任給2千万円を出してIIT卒業生を採用したという話を現地で聞いた記憶があります。日本企業では考えられない話ですね。
今日はインドの教育制度を中心とした話でしたが如何でしたでしょうか。
Lake Pichola:ピチョーラー湖は、インドのラージャスターン州、ウダイプル県の都市にウダイプルに存在する湖。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。