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2017.09.25
藤崎 照夫
このコラムも今回で50回という一つの区切りを迎えることになりました。
期間にして4年強ではありますが気がつけば50回を迎えたという感じがしています。私の10年近いインド駐在の経験を基にしたインドでのビジネス展開の実態と留意点を長く執筆し、これからインドへの進出を検討される方の参考になればとかなり詳細に亘り記述して来ましたが、そのビジネス編が終了した時点で読者の方々にもっとインドについて知って頂きたいと思い「基礎知識編」という形で筆を進めてきました。今回は50回の節目と言うことで大きな意味でのインドと日本の結びつきについて話を進めたいと考えた次第です。
先ずインドは日本にとってきわめて重要な国であると言えます。その理由は多岐に亘りますが主として下記のような事が挙げられます。
(1) インドは世界中でトップ級の親日国である
(2) インドは世界最大の民主主義国家であり基本的価値観を日本と共有する
(3) インドは途上国の雄であるが、日本の同盟国米国との関係も良好である
(4) インドは地政学的、戦略的観点から重要である
(5) インドの経済的潜在力は大きく、我が国の経済にとって重要である
上記5項目の中でも最も大事なインドの親日性について具体例挙げながら話を進めたいと思います。
・日本とインドは仏教を縁とした歴史的精神的な絆がある如来や菩薩という仏を守る四天王や八部衆等はもともとインドから来たヒンドゥー教の神々です。奈良の興国寺国宝館や京都の東寺や三十三間に並べられた仏像と神像を良く比較すれば分かると言われています
・次にインド人が日本に感謝している最大の事は英国からの独立運動を日本が支援し寄与したことです。1905年日露戦争での日本の勝利はインドの独立の志士たちを鼓舞したと言われています。インドからはビハリ・ボースなどの独立を目指す志士たちが訪日し日本人の有志達が彼等を支援しました。
・戦後の日本との関係で歴史的にも有名な話は極東軍事裁判において、インド出身のパール判事がこの裁判の無効と被告人全員の無罪を主張したことです。主たる根拠は国際法、特に刑事法に則った法的主張だが根底には日本によるインド独立支援への高い評価と敗戦国日本への同情が心底にあったと伝えられています。
・また一般的に良く知られている話としてインド独立後の初代首相のネルー首相が、日本の子供たちの強い要望に応えて娘のインディラの名前を付けた子象を上野動物園に寄贈したことは記憶にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。インドはまた1951年のサンフランシスコ講和会議には出席しませんでした。ネルー首相は戦勝国がよってたかって戦敗国日本を裁くような形を嫌ったからで翌年の1952年に対日賠償請求権を放棄した上で日本と対等に平和条約を締結しています。
・戦後70年以上を過ぎても未だ平和条約が結ばれていないロシアと比較してもインドの親日さがご理解頂けるのではないでしょうか。インドはまた我が国の戦後の復興に必要な鉄鉱石をいち早く日本へ輸出しています。
一方日本は政府開発援助(ODA)の第一号となる借款を供与してインドの港を建設してこれに報いています。
・またインドの親日を示す好例として忘れてはいけないのは昭和天皇の崩御の際にインドは国を挙げて喪に服したことです。インド政府は昭和天皇の崩御の1989年1月7日から9日までの3日間の服喪を宣言しました。他国の元首の逝去に対し哀悼の意をささげるのは国際慣行として行われますが自国で国を挙げて喪に服するというのはめったにありません。
・またこれは私自身も知らなかったことですがインド人の我が国への思いを示していることがもう一つあります。平和を重視するインドは、現在でも毎年8月6日にはインド国会において広島・長崎の原爆被災者を偲んで黙祷をしているそうです。この事は当事国の日本を除けば世界でも例がないのではないでしょうか。
これまで縷々述べてきたことでインドの親日とその理由の一端がご理解頂けたのではないでしょうか。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。