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2017.10.23
藤崎 照夫
先月はインドが如何に親日国であるか又その背景はどのような理由があるのかなど詳細に亘り述べましたが今月はもう少し遡って日印交流の基礎を築いた人達に先ず焦点を当てて話を進めて行きたいと思います。
現在の東京芸術大学の創設者で有名な岡倉天心は1901年(明治34年)から1902年(明治35年)にかけてインドを訪問しカルカッタで詩人ラビンドラナート・タゴールや宗教家ビィビェカナンドと交遊しています。
タゴールはインドの国歌を作詞・作曲した愛国者でもあり岡倉天心との交流を契機に日本に関心を持ち短時間の立ち寄りも含めると5回に亘って日本を訪問しています。タゴールはアジアで初めてノーベル文学賞を受賞していますので名前をご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。この岡倉天心の影響で著名な画家である横山大観や菱田春草もインドに興味を持ち横山大観はカルカッタで展覧会を開いています。
このような芸術家のインドへの関心の高まりにやや遅れて、政界や財界も動き出しました。政界では1882年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設し後に総理大臣まで上りつめた大隈重信であり、財界では明治から大正にかけての財界の重鎮であり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋澤栄一です。
彼は第一国立銀行など500もの企業を設立しています。
1903年(明治36年)に大隈と渋澤は、細川藩分家の長岡護美とともに日印協会を設立しました。会員には日本の経済界、学界の指導者の他にインドのタタ財閥などのインド人も含まれていたそうです。1903年設立の日印協会は、まだ国交のなかった英領インドとの経済文化交流の中心となり宗主国であった大英帝国と日本との交流のために日英協会が設立されたのは5年遅れの1908年です。
インドに注目した先駆者たちは宗主国以上に植民地であるインドに注目したというのは私も知りませんでした。大日本帝国政府も大使館や領事館の代わりとして日印協会を必要としカルカッタに日本の商品館を設立し運営を行ったりしています。日印協会は初代会長が長岡護美、第二代会長に大隈重信、第三代会長に渋澤栄一と三人の錚々たる人物が会長に名を連ねています。
第二次大戦中は活動の停止を余儀なくされた時期もあったようですが現在は代七代の会長として森喜郎元総理、理事長として平林博元駐印大使が活躍をしておられます。
ここで少し話の観点を変えて日本のインドへの経済援助について触れてみたいと思います。インドは現在我が国のODAの最大の受け入れ国になっています。また我が国が円借款を最初に供与したのもインドです。我が国は戦後の復旧復興に必要なインドからの鉄鉱石の輸入のために港湾の建設資金を供与しています。インドに対する我が国のODAは1958年から2015年まで有償及び無償資金供与合計で5兆円を超える金額になっています。
インドは大きな国であり、電力、道路、鉄道、上下水道等のインフラ建設需要が大きいのでプロジェクトごとの金額が大きく贈与では賄いきれないため円借款やODA以外の銀行融資(例えば国際協力銀行の融資)を希望するケースが多いのですがインド政府は返済義務を忠実に履行してきてこれまで一度も債務不履行はありません。大国としての誇りを持ち日本の信頼を裏切らないという姿勢が分かりますね。
また湾岸戦争が勃発した時にインド政府は湾岸諸国で働く多数の労働者を一時的に退避させました。彼等が稼いでインドへ送金していた外貨は激減し、併せて原油価格の急上昇によりインドの外貨準備は急減しインドの輸入の2~3週間分程度となり我々の工場も輸入部品が輸入出来なくなり工場の生産を調整せざるを得ない状況に陥りました。
この時インド政府はIMFに支援要請をしたのですがIMFの動きが遅くて当時のマンモハン・シン大蔵大臣が日本を訪問し当時の橋本竜太郎大蔵大臣に会い支援の約束を取り付け、それがIMFの支援に結びついてインドは日本のお陰で危機から脱することが出来たそうです。これも日本とインドの結びつきを語る上で大事なエピソードではないでしょうか。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。