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2018.07.02
藤崎 照夫
始めに:これまでにインドとのビジネスに携わった経験をお持ちの方なら「タタ財閥」「ビルラ財閥」などの名前を聞かれたことが多いのではないかと思いますがインドでは現在も財閥の持つ影響力は大きくインド経済に占める彼らの力は巨大なものがあります。
これから数回に分けて財閥の起源やその発展の姿などについて触れていきこのシリーズが読者の皆様のご参考になればと考えています。
インド財閥とは:一説によれば、インドではGDPの6割から7割が財閥によって生み出されていると言われています。それを裏付ける一つの指標としてインドを代表する株式指数「SENSEX指数」を構成する30の企業の内財閥三条件(同族支配、多角化、大規模)で抽出6割が財閥系企業となります。これは50銘柄で構成される「NIFTY指数」でも同様な結果となります。
財閥の起源と歴史:インドの近代史の中で東インド会社という名前を思い出される方が多いかと思いますがインド財閥の起源はこの東インド会社の活動の拠点であったカルカッタとボンベイの二大都市で隆盛した「商人のコミュニティ」にあります。ボンベイを中心に活動したコミュニティの代表が「パルシー」「グジュラティ」でありカルカッタを中心にしたのが「マルワリ」で彼らは「土地」「宗教」「民族」などによって結びつけられた社会的なコミュニティであり、古くから存在しており商業活動もコミュニティを基盤として成り立っていました。
彼らはコミュニティの先達から商売を学び、コミュニティ間で資金を融通して助け合い、その信頼とネットワークによって成功していったのです。インド商人はコミュニティを基盤として東インド会社、英国商人、インド政庁などの英国の権威を上手に捉えて大商人となり、投資を行い財閥化していったわけであります。前段で三つのコミュニティの代表について触れましたので夫々について少し詳しく述べていきたいと思います。
商人集団「パルシー」「グジャラティ」「マルワリ」:「パルシー」の祖先はペルシアにいたゾロアスター(拝火教徒)で10世紀の初めにその一部の人達がモスレムの迫害から逃れてインド西岸に辿り着いたことから始まると言われています。インド西部グジュラート沿岸地域の各所に長らく定住していましたが1668年に英政府からボンベイを取得した東インド会社が城砦を建設し信教の自由を保障し、商用港を整備して交易の往来を許可すると彼らはボンベイに定住するようになりました。
「パルシー」は人口が極めて少なかったのですが優れた英語力を持ち東インド会社の通訳などを行い、やがて彼等と取引を開始するようになりその蓄財により19世紀中頃にはボンベイの不動産の半分を「パルシー」が占めるようになったとも言われています。「パルシー」を出自とする財閥としては今日インド最大の財閥であるタタ財閥のほか、ゴドレジ財閥やワディア財閥があります。
「グジュラティー」はインド西部グジュラ―ト地方出身という地縁に基ずく商人コミュニティです。
グジュラート地方沿岸は中世以前から海上交通の中継基地として栄え、内陸部では繊維業が盛んでありジュラート商人は海上交通と陸路交易の両方で活躍しました。19世紀以降はアーメダバードとボンベイが活動拠点となりボンベイでは「パルシー」と協力して商業活動を行っています。
貿易、株式仲介業、繊維業などから財閥に発展していきました。
彼らの特徴はグローバルに活動することであり例えば、アフリカや東南アジアなどに渡って行った印僑にく、在米インド人でも現在五人に一人以上がグジャラティーと言われています。グジャラティ―出身の財閥としてはインドを代表するリライアンス財閥、マファトラル財閥、ワルチャンド財閥などが挙げられます。
次回は「マルワリ」などについて触れていきたいと思います。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。