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2018.10.22
藤崎 照夫
今月も先月に引き続きタタ財閥について話を進めていきたいと思います。読者の皆様の中にはご存知の方もあるかと思いますが、タタ財閥は日本と古くからのつながりを持っています。今月はそのあたりを詳述したいと考えています。19世紀末になると植民地の「強制的自由貿易」の下でも力をつけつつあったインド綿花業者と、本国政府に政治力を行使する英国企業との間で利権競争が生じ、次第に激しさを増していました。
そして当時、タタの綿業の新たな輸出先の一つとして急速に台頭してきた国が明治期の日本でした。1891年極東貿易を担当していた従弟のRDタタは訪日して渋沢栄一らと綿取引における「海運業の高い運賃」について会談しました。渋沢はRDタタに「運賃効率を高めるために帰り荷に石炭をインドへ運んではどうか」と提案しましたがRDはコストの観点からそれは難しいとして断りました。二年後、今度はJNタタが日本を訪れ、英国P&O汽船とその同盟に対抗するために海運業への行同事業をしないかと渋沢に持ちかけました。
渋沢は一旦これを断り、浅野財閥の浅野総一郎、そして日本郵船社長の森岡昌純等を紹介し共同運航が実現することになっていきました。元々、遠洋航路を開拓したかった日本郵船は、リスク負担の公平性を条件に共闘を受けました。こうしてタタと日本郵船は各一隻ずつ六週に一回のムンバイ定期航路を開設し互いの代理店として事業を行うことになりました。英国の巨大企業を相手に日本と植民地インドの企業連合が誕生することは、当時の政治環境を考えると画期的なことであったと言えるでしょう。
日本を離れ米国経由で渡英したJNタタは船をチャターして「タタ海運」を設立、定期運航を開始しました。然しながら、P&O社による新規参入者に対する報復はタタの想像を超えていました。日本への綿花輸送については海上運賃を無料にしたり、タタ海運の風説を流し海上保険を掛けられなくするなどあの手この手の攻撃をしてきたため結局タタはP&O連合との運賃合戦に敗北し二年後の1895年に撤退しました。
タタ撤退後に日本郵船は単独で、ボンベイ定期航路を持続しP&O側からの申し出により同社と同盟を結んで戦いは終わりを告げました。日本郵船の背後には日本政府がありましたがタタには政治的パワーがなかったのです。タタは海運では撤退しましたが日本側の需要により原綿輸出は続けることが出来、明治政府は1897年、遠洋航路開拓への貢献を称えJNタタに勲四等瑞宝章を」授与しました。
1890年代になると、JNタタは綿業による利益の運用として不動産投資を行うようになり、ボンベイ最大の不動産王となっていました。ボンベイは元々七つの島からなる都市であり、埋め立て開発は1860年代から続き不動産業が活発でした。JNタタは1898年一万平方ヤードの土地を政府より借りてホテル事業にも着手しました。外国人を自由に招くことのできるようにと建設したこの「タージマハル・ホテル」(2008年テロの被害に遭っています)は現在もその壮麗さで有名で読者の中にも宿泊された方もいるのではないでしょうか。
このホテル建設の契機は、JNタタが外国人の客を夕食に招待するために訪れたホテルで「インド人は入れない」と門前払いをされ悔しい思いをしたという有名なエピソードのある人種差別体験にあると言われています。タージマハル・ホテルは1903年完成し現在も旧館として存在しています。ホテルに必要な特殊な最新設備や備品は、欧州を訪れJNタタ自身が買い付けを行ったという話が残っています。今回もJNタタを中心に話を進めてきましたが例月は製鉄業への進出について書いてみたいと考えています。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。