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2019.07.16
藤崎 照夫
先月に引き続きリライアンスの創業者と歴史について話を進めていきたいと思います。
英領イエメンのアデンで勤務してまもなく、ディルバイの性格を表すエピソードが残っています。イエメン・リアル銀貨の銀の価値が、外貨で獲得できる価値よりも高いことを知ったディルバイは思わぬ行動に出ます。彼はポンドでリアル銀貨を買い、その銀貨を溶かし、ロンドンの貴金属ディーラーに持ち込んで売却したのです。
「利潤は少なかったが、ぼろい儲けだった。三ケ月後に流通が停止したが2~30万ルピーは儲けた。機会が得られないということはないものだ」と彼は後に語っています。当時の同僚たちの証言では、彼は確かに普通の社員ではなかったといいます。
昼休みや4時半に仕事を終えた後はスーク(アラビアの市場)に赴いてアラブ商人、インド商人、ユダヤ商人の動きをじっくり観察するのを好みました。やがて彼は自分自身でそれを実践したいと思うようになります。
また商人として必要な努力を続け、夜は英語の勉強に時間を費やし、「タイムズ・オブ インディア」など母国の英字新聞や雑誌を読むのを楽しみにしていたようです。1954年にインドに一旦戻り22歳で結婚し妻を連れてアデンに戻り、その後ディルバイは船にディーゼル燃料や潤滑油を入れるのが仕事になります。アデンに寄港する船にサービスしながらその船員や各国のエンジニアと友達になり、世界のことについて聞くのが日課になっていました。
「デスクワークよりハードだったが、シェル部門での仕事は楽しかった」と後に述べています。このシェル石油の仕事をしながら、自分の石油精製所を持つことが夢になりましたが、「自分の石油精製所を持とうと考えるのはクレージーだった」と振り返っています。ディルバイは、十分な資金はありませんでしたが、友人や知り合いの小売店主に頼み、借金して多くの商品の公海取引を始めました。「利益は分け与え、損失は自分のもの」が商売のモットーでした。
やがて彼は超人的に商売のコツを習得し、公海取引で滅多に損失を出すことはなくなったといいます。「私は自分の取引に関する動物的本能を持っていると思っていたが、持っていたのは市場動向の読み、理解だった。私は新聞を隅々まで読み、マーケットの声を聞き、船乗り仲間のどんな噂も聞き逃さなかった。取引内容につぃてメリットとデメリットを夜ベッドの中で一晩中考えた」と後年述べています。
当時の中東情勢は不安定で。かつ英国統治も終焉に差し掛かっていたためアデンにいる多くのインド人が帰国を始めていました。またのアデンのインド人は英国に移住することが許されていたため、ロンドンに移る者もいました。ディルバイも「ロンドンで小売店を開く」ことを選択肢の一つとしていましたが「インドに呼ばれている」と感じロンドンでの心地よい暮らしを捨てて帰国を決めました。彼は1958年末にインドに帰国しましたがボンベイについた時点で商売の軍資金と呼べるほどのお金はありませんでした。
この時に彼が持っていたお金は約3000ドルでした。インドではアデンのように商売仲間がいなかったため、商売の機会と仲間を探しにグジャラートの各地を回りました。アーメダバード、バローダ、ラジコートなどです。この時、ディルバイは「自動車部品か雑貨店を開こうか」と何となく考えていましたが、友人から「あまり儲けがない」との忠告を受けてこの事業はやらないことにしました。さらに彼は故郷であるチョルワドに戻り仲間を捜しました。
短い滞在でしたが従兄弟の子であるチャンバクラル・ダマニと知り合いました。彼がディルバイと同時期にアデンで働いていたこともあり意気投合した二人は一緒に仕事をすることにしました。チャンバクラルの家族はインドや日本からの繊維をアデンに輸入していました。彼の父はすでに引退していたこともあり二人が始める商売に10万ルピーの投資をしてくれました。ディルバイはボンベイに戻り狭い事務所を借りて机と電話が一つ、椅子が三つだけの状態から事業を始めました。これがリライアンス財閥の産声です。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。