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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.08.19

「悠久の国インドへの挑戦」74 インド基礎知識そのXXX:インドの財閥について(14)

藤崎 照夫

アッサム州の夕焼け

 今月も引き続きリライアンス財閥につぃて記述したいと思います。ボンベイでスタートした「リライアンス・コマーシャル・コーポレーション(以下リライアンス商会)と名付けた同社の創業時の仲間は、社会活動家であり糸取引で成功していたマチュラ・ダス・グプタや姉の子であるラムニクバイ・メスワニなどがいました。最初の2~3年を彼等と仕事を行い、その後兄ラムニクバイ、学校を卒業した弟ナツバイ、高校時代の友人二人が加わりました。

 ディルバイらは湾岸諸国から商品輸入を開始するとマージンを低くして、価格を安くし大量に売り始めました。この中東からの仕入れネットワークを活かし、ほどなくボンベイの商人たちの間で名前が売れ始めました。リライアンス商会では顧客の要望に何でも応えたといいます。ある時、湾岸の商社から「首長のために用意する芝生用、バラ園用の肥料土が急いで欲しいとの発注がありましたが、友人からは「注文に応える方法はない。やめた方がいい」との忠告を受けました。  

 然しディルバイは無視してこの注文を受けてしまいます。彼はすぐに無職の若者たちを集めて、彼らに「ボンベイ中の糞を見つけ次第、急いで買い集めるように」と指示を出します。これを普通の土と混ぜ合わせてパッキングし輸出して見事に納期に間に合わせてみせたのです。「私たちはこれで本当の大金を掴んだ」とディルバイは述べています。
 糞と土、タダ同然のものを売って大儲けをしたわけです。アデン時代の仲間もリライアンス商会に加わり更に貿易事業は拡大していきました。
 
 1960年代に入ると、インドでも化学繊維が普及し始めます。綿やジュート製品でタタやビルラが大金を掴んだように、ディルバイは化学繊維で大金を掴むことになります。彼はナッツや香辛料利の通常の商品貿易に飽きていました。利益が限られるからです。そこで彼は化学繊維糸に目を付けます。しかし他の商品より価格変動リスクが高くより大きな資金も必要とする商品でした。彼はおそるおそる少量の輸入から始め次第に量を増やしていき、更に足りない資金をアデン時代の友人から借りて、この繊維貿易を徐々に軌道に乗せていきました。

 1960年代の当時、ビスコース繊維の工場はビルラ財閥に一つ、ナイロン工場は国営の一つだけでした。ポリエステル工場はその先の1970年代まで待たなければなりませんでした。これは輸入ネットワークを持つ者にとっては都合の良い環境でした。当時、インドでは国内産業保護のために厳しく輸入制限が行われていましたが、ディルバイは輸出額に見合った輸入が可能となるREPライセンスを取得します。これによりインドで多く生産されていたレーヨンを輸出し、その稼いだ外貨で高付加価値のナイロンを輸入しました。

 このナイロン輸入が他社との違いでした。当時ナイロンの重要性に気付いていた競合が少なく暫く売り手市場が続きました。ディルバイはこれまで七年間の貿易業でまずまずの成功を収めていました。当時レーヨンの輸出で国内最大の輸入業者になっていたのです。彼は化学繊維の需要の大きさと可能性を理解し今度は自ら繊維を製造することを目指すようになります。友人からは先ずは古い工場を買収して回収することを勧められますが新設することにします。
 
 繊維業が盛んなグジャラート州アーメダバード郊外に小さな工場を建設、1966年2月「リライアンス・テキスタイル・インダストリーズ」を設立します。これが商社から製造業への転換となります。社会主義で疲弊し外貨が不足していた当時のマクロ環境を背景に、政府による様々な輸出振興策が講じられていましたが、彼は他社と比較して極めて政策をうまく活用して業績を上げたといえます。

 当初の工場は小さかったが付加価値の高いものでした。またブランド名「ビィマール」で高級サリー(伝統的なインドの婦人服)を製造、高品質の訴求と差別化で爆発的な売れ行きとなりました。多くのデザイナーを雇い、ショールームを全国に拡大、他社を圧倒し始めました。サリー以外にもスーツやシャツなど高級衣料分野に絞って開発、製造しました。成功のはじまりは「良いもの」を「高く」売るという富裕層ビジネスでした。次回はリライアンス財閥の躍進について触れたいと思います。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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