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2020.03.16
長井 一俊
3月に入ると例年なら、晴れた日には雪が解け、道路は水浸しになるのだが、積雪が無かったこの春は、乾いたまま本格的な春を迎えようとしている。市民はあらためて地球温暖化を実感している。
そんなある日の午後、私の店の前に自転車が止まり、リュックを背負った若い女性が店に入って来て、『サロに住むトゥオミネン教授から貴男のお店の事を聞いてまいりました。私の名はサイヤ、自転車でハンガリーから来ました』と自己紹介した。
思わず私は『エッ、あのブラームスのハンガリーから自転車で!冗談でしょう!』と言ってしまった。すると彼女はリュックのポケットから、タイトルに“EU サイクリング”と書かれた黄緑色のパンフレットを取り出して、私に見せてくれた。
思い出した。前秋にトゥミネン教授からの電話で『サイクリング・ツアーのコンダクターが貴男の店によるかも知れない。爵位のある東欧の名家の出の方だから、丁重に対応して欲しい』と聞かされていた。フィンランド語にはheとsheの区別が無い。私はその人を若い男性と想像していた。
私は名家のお嬢様を一番奥の、暖かいテーブルに案内した。二重扉とはいえ、入り口近くは客が出入りする毎に、寒気が入ってくるからだ。
彼女に緑茶を勧めながら、取り敢えず、フィンランドに自転車でやって来た経緯を聞いてみた。すると彼女は : 私は二人姉妹の長女として生まれました。入り婿をもらい結婚したのですが、子が出来ず、5年ほど経った頃、主人が浮気をしている事を知りました。ハンガリーは宗教の自由を保障されていますが、我家は厳格なカトリック教徒で、代々離婚した人はいませんでした。私は親族の強い反対を押し切って、主人を離縁しました。
その時の勢いで、家督を妹に譲り、自力で生活する道を選びました。しかし私には、これと言った特技も知識もありませんでした。事務員、店員、料理人・・・自分が出来そうな仕事は何もありません。ピアノもヴァイオリンも人に教えられる程ではありません。ただ、家は小高い丘の上にあったので、子供の頃から自転車で、急な坂道でも上り下りする事は得意でした。
私は自転車と好きだった宝飾品を持って家を出ました。その宝飾品を売却して、何かに引き立てられるように、自転車で自分探しの旅に出ました。
調度その年、ハンガリーがEUに加盟した為、パスポート無しでヨーロッパ中を旅行する事が出来るようになったのです。ベルギーやドイツをはじめ、西ヨーロッパでは自転車専用道路が沢山ある事を知り、ヨーロッパ中を自転車で廻りました。
自転車旅行には多くのメリットがありました。ひ弱だった私が、風邪ひとつ引かない健康な身体になりました。そして当然ながら、自転車旅行はエコロジーに叶い、交通費は要りません。民宿を利用すると宿泊費も安価で、宿のオーナーや宿泊客と親しく成れて、訪ねた国の実情が良く分ったのです。飛行機やクルーズ船の旅より、五分の一以下の費用で、数倍の楽しさを味わえる事も知りました。
スマホで天気予報を知り、民宿のオーナーと相談すれば、柔軟に旅程を変更出来る事も分りました。これはビジネスになる、と思ったのです。
私のサイクリング・ツアーの売りは、「都市から都市、ホテルからホテル」ではなく、「村から村、民泊から民泊」としました。事務所も事務員の雇用も必要ありません。どこにいても、スマホで相談を受けられ、電話で民宿に予約できました。参加してくれたお客様には、旅先で撮ったスナップ写真をメールしました。口コミでお客は広がり、リピーターもどんどん増えました。その内の一カップルがトウミネン教授ご夫妻でした。
今回、エストニアの首府ターリンからフェリーでヘルシンキに渡る、北欧ルートを加えようと、その下見にやってきたのです。北欧に憧れている東欧の人達は沢山います。白夜の夏、冬のオーロラ、沢山の湖沼、白樺林や楓の森は東欧の人達を魅了すると思います。
私はサイアの一言一言に感動した。まさに、“人の行く 裏に道あり 花の山”
である。
今では、初心者向け 中級車向け 上級者向け の3つのクラスを用意し、上級者コースには、“アルプス越え”スイス・イタリア旅行もあると言う。彼女は万一の事故に備えて、保険会社と契約し、コース沿いの病院をくまなく調べあげている。コンビニや食事処・公衆トイレまで全てが彼女の地図上に記されていた。
レストランで新メニューをつくる事、メーカーが新製品を開発する事はやさしい事では無い。まして彼女は生まれて以来、周囲にかしずかれ、掃除・洗濯・料理の経験も無く、結婚しても子宝に恵まれず、夫君に不倫され、離婚し、家督を失い、そして家出した。にもかかわらず、自転車の旅の途中で学んだ諸事を、見事に組み合わせて、海外サイクリング・ツアーという新しい業態を生み出してしまった。
ブラームスは古典音楽に様々な新風を吹き込み、新時代の壮大な交響曲を組み上げた。サイアという旧家の令嬢が、そのDNAを秘かに引き継いでいたように思えてならなかった。
長井 一俊
Kazutoshi Nagai
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。