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2018.10.01
長井 一俊
10月になると北欧は早、晩秋。庭の林檎の樹が沢山の実を結び始めた。しかし、林檎が赤く大きく育つ前に、木枯らしが吹いて、枝から落下してしまう。緯度の高いイギリスのウールスロープ村に生まれたニュートンが、万有引力を発見したのも、きっとこの時期に違いない。
私の家では、林檎の木の下に穴を掘って暮らしている大兎が、落ちた林檎をきれいに食べ尽くしてくれるので、ジャムやジュースにする手間が省ける。
私は前年、日本からの土産として、「ふじ」という銘柄の大きな林檎を2つ、フィンランドに持ち帰った。果実は原則、輸入が禁止されているため、税関で没収されそうになった。しかしあまりの大きさにビックリしたその税関員は、手の空いている仲間達を呼び集めて、自慢げに披露した。 議論の末、「一つは没収、一つはサンプルとして通過」となった。
その後の数日間、私はその林檎を店のカウンターに置き、客達に日本の優れた農業技術を吹聴した事は言うまでもない。しなびる前に、幼女を連れて来店した家族にプレゼントして、大喜びされた。翌日、ご主人が再来店して、「隣家の人も呼び、皆で戴いた。大きいだけではなく、大変甘くて美味しかった」と言って、持ち帰りの寿司を6折も注文してくれた。
そんなある日、常連の御夫人客二人が来店し、カウンター席に座った。家族連れはテーブル席に座るが、常連客や呑兵衛はカウンター席を選ぶ。すぐ前で働いている私の耳には、会話の殆どが聞こえてくる。北欧事情を知るための、貴重な情報源である。
ご婦人の一人が『この時期になると私は出不精になるばかりか、人に会うのも嫌になるの』 『それは貴女だけではないわ。私は電話に出るのさえ億劫に感じるの』と同じ悩みを語り合った。数日前に来店した中年の男性客二人も『店には客は来ないし、暖房費ばかりが増えている』 『朝、暗い中を出勤するのが辛い。来春まで続くと思うと嫌になるよ』とこの時期の鬱陶しさを嘆いた。
この程度ならまだ良いが、失恋、離婚、病気・・・等がこの時期に重なると、鬱病になりかねない。鬱病は自殺の引き金となる怖い病気である。一昨年のこの時期、ポリにおける私の大親友が、周囲のおだてに載せられ、市議会議員選挙に立候補した。懸命の努力にもかかわらず、彼は落選してしまった。彼の落ち込みようは尋常ではなく、私が掛けた電話にも出てくれなかった。結局、心療内科医の勧めで、彼はポリの中央病院に入院したが、退院したのは半年後の昨年5月だった。
北欧、特にフィンランドの自殺率は日本と並んで世界のトップを競っている。
日本の場合は、中小企業の社長が資金繰りに窮した結果が多く、北欧の場合は、晩秋に集中する鬱病の故であると言われている。
カウンター席に座る客達の話題は、意外にも暗いものが多い。幸せな現在の生活や将来への希望の話は少ない。「夫は誠実で正直」とか「息子はヘルシンキ大学に合格した」等の明るい話が出ると、場が白けてしまう。逆に「どうも夫は浮気をしているようだ」とか「最近食欲が無く、胃がんではないか?」等と嘆くと、話は盛り上がる。聞き手は内心「うちの亭主は甲斐性無しだが、浮気はしない」とか「私は風邪をよくひくが、癌とは無縁だ」と心が和むのだ。
又、北欧人がしばしば交す深刻な悩み: 『最近うちの息子の様子が変なんだ。朝は起きられず、夜は一晩中家に帰って来ない』と言うと、『うちの息子も食事の量が減って、水ばかり飲んでいる。金遣いも荒くなった。マリファナでもやっているのだろうか?』と嘆き合う。
オランダやスイス、そして米国のいくつかの州では、大麻吸引が合法化されてしまった。ユーロ圏内では人や物の移動が楽になってしまい、水上交通の発達した北欧では、大型クルーザーによる海外との往来が簡単に出来てしまう。手荷物検査のある飛行機と違って、クルーザーへの監視は緩い。
オランダでもスイスでも、マリファナを外国人に売るのは禁止されているが、
その国の友達に頼めば、いくらでも手に入ってしまう。今流で言えば、マリファナは『ダダ漏れ』なのだ。マリファナの吸引は、より深刻なドラッグへの入り口である。依存症になれば、死と向かい合わせの生活に陥ってしまう。
何故、マリファナ販売が許可されたのか? 私は多くの客にその訳を聞いてみた。すると予想していなかった答えが2つ返ってきた。一つ目は、 『マリファナの吸引者を捕まえると、牢屋が一杯になって、重罪犯人を収容できなくなるからだ』 二つ目は、 『国や州の立法府は議会である。議員達は比較的裕福で、多忙である。家族サービスの埋め合わせに、子供達への小遣いが多くなる。子供達は余ったお金でマリファナを買う。このままでは、自分の子供達が前科者になってしまう。それよりも法律を変えた方が良い』と言うとんでもない話である。
嘆きの中には、世界共通とも思える可笑しいものもあった: カウンター席の若者が、同伴した友人に『僕は学生の頃から憧れていた、美人でスタイルが良く、上品で控え目の女性を嫁にした。他の女性には目もくれず、ただひたすら彼女に尽くしたんだ』 『それは良かったね』 『でもがっかりだよ。結婚してみたら、彼女はただの人間じゃないか』と嘆いた。
この若者は一体なにを考えていたのだろうか? こともあろうに北欧で、こんな嘆きが聞けるとは思いもよらなかった。結婚する前に男性は、女性が何たるかを、よく知っておくべきなのだ。その逆も、しかりだ。
長井 一俊
Kazutoshi Nagai
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。