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2018.07.23
定森 幸生
「職務給」とは、個々の社員が担う「職務」それ自体が、会社にとってどれだけ重要であるかを評価して報酬額が決められる制度です。それに対して、「個人職務能力給」とは、個々の社員が自分の職務を遂行する際に発揮する知識・技能・専門性・経験・行動パターン(いわゆるコンピテンシー)などが、どれだけ会社に貢献するかを評価して報酬額を決める制度です。
「職務給」と「個人能力給」の関係は、大筋において、第36回と第37回で解説した、「社員区分(格付け)」に基づいて決められる「固定給」と「業績」に基づいて決められる「変動給」との関係に近いと言えます。
「職務給制度」の下では、会社の全社員について、一人ひとりに割り当てられる職務を、さまざまな分析手法によって「職務記述書」として定義します。その内容に基づいて、その職務の会社にとっての価値の大きさ(重要度)を、一定の手法によって定量的に評価して報酬額を決めます。しかし、職務の数だけ報酬額を決めることは、理屈の上からは社員の数だけ報酬額を個別に決めることを意味します。大きな組織はもちろん、中小規模の組織でも、事務処理の煩雑さや負荷の大きさを考えると、膨大な報酬管理コストが発生しますから、現実的ではありません。
したがって、実際の「職務給制度」の運用では、同じ職責や極めて類似性の高い職責から成る複数の職務を一括りにして「職務グループ」を決めます。そして、それぞれの職務グループを定量的に評価して、他の職務グループとの相対比較において10種類前後の賃金等級(pay grade)の何れかに格付けします。この格付けに至る過程は、職務評価(job evaluation)と呼ばれます。賃金等級の数は、組織の大きさ、職務の多様性、組織全体の社員数などによって異なります。
かつては、数万人規模の社員が在籍する会社の中には、社内的公正さ(internal equity)を意識した精緻な職務分析を基に、数十もの賃金等級を設定する例もありました。職務定義に忠実であるという観点からは合理的ではありますが、報酬管理の実務効率の観点からは実務上の負荷が多過ぎるうえ、それによって必ずしも社内的公正さが実現できる訳でもないとの反省から、賃金等級の数を一挙に10前後に減らす例が多くみられるようになりました。それに呼応して、職務グループの数も大括りにして数十から10前後に圧縮するようになりました。この方法はブロード・バンディング(broadbanding) と呼ばれます。
各賃金等級に位置付けられた職務グループに適用される報酬金額は、その職務グループを構成する多くの職務の社内貢献度や、社外労働市場の賃金相場の変化への対応などを勘案して、下限(最低額)と上限(最高額)の間に一定の賃金レインジ(pay range)が設定されます。上位の賃金等級ほど職務内容は複雑で、個人の習熟度や労働市場の影響を受けやすくなりますから、pay rangeは一層広がる傾向にあります。また、各等級の賃金レインジの最高額は一つ上の等級の賃金レインジの最低額を上回ることも決して珍しくありません。しかし、現在の等級に位置づけされた職務グループの報酬額の上限に達した場合は、その上の等級の職務に移行しない限り、受け取る報酬額は頭打ちとなります。
一方、「個人能力給制度」のもとでは、職務そのものではなく、その職務を成功裡に遂行し高い業績貢献度を実現するために必要な知識、技能、専門性、経験、成功確率の高い職務行動や人的特性などのコンピテンシーに対して報酬額が決められます。 特定の職務についての精緻な分析に基づいた狭義の定量的な評価ではなく、さまざまな職務に関して柔軟に適用可能な汎用性の高い個人の能力や資質という広義の定性的な評価が基本となる報酬制度です。具体的な報酬額の算定方法は、企業の経営方針によってまちまちですが、「職務給制度」の運用の場合と同様に、制度運用の効率性の観点から、一定の手法によって個人の職務能力を賃金等級に反映させることになります。
「個人能力給制度」を採用する企業に共通する認識は、どれだけ職務を精緻に分析して報酬を判定しても、職務それ自体が仕事をするのではなく、あくまでその職務を担う個人の能力(=力量)の有無や優劣が仕事の成否を決めるという、きわめて常識的な考え方です。その認識のもとに、個人能力給制度を主唱する企業は、この制度に対する重要なメリットとして、
① 会社にとって、既存の職務自体が陳腐化しても、その職務に従事する社員を解雇することなく、その社員が保有する職務能力がフィットする別の新たな職務に柔軟かつ迅速に就かせることが可能で、離職率を抑制し新規採用のコストを節減できる
② 社員にとって、会社が具体的にどのような職務能力を求めているかが明確になり、それらの能力要件が適用される職務の種類や守備範囲がイメージしやすくなるため、会社に貢献しようとする社員のモチベーションを高めることが期待できる
③ ライン管理職にとって、部下の「顕在職務能力」はもちろん「潜在職務能力」を業務ニーズに応じて柔軟に活用することが「職務給制度」より容易であり、離職や病欠などで一時的に担当者が不在になった場合のバックアップなども含め、人材の任用・活用の自由度が増すことに期待しています。
「職務給制度」と「個人能力給制度」の何れが本質的に優れているかの判断は、一概にはできません。強いて言えば、下記の諸条件が有効な判断基準になります。
【職務給制度が馴染む経営環境条件の例】
・職務内容が標準化しやすい
・職務内容の変更が比較的少ない
・離職率が比較的低い
・技術革新の速度が比較的緩慢である
・社員の昇進機会が在籍年数(習熟度)によって決まる傾向が高い
【個人職務能力給が馴染む経営環境条件の例】
・社内の技術革新や組織改編の頻度が比較的高い
・高度な教育や職業訓練を受け、幅広い業務に取り組むモチベーションの高い社員が多い
・新たな技能習得の機会や態勢が存在している
・社員の離職とその補充コスト、およびその間の収益機会損失が顕著である
・一つの職務の習熟度が社員の昇進機会につながる傾向が低い
定森 幸生
Yukio Sadamori
1973年、慶應義塾大学経済学部卒業後、三井物産株式会社に入社。1977年、カナダのMcGill 大学院でMBA取得後、通算約11年間の米国・カナダ滞在を含め約35年間一貫して三井物産のグローバル人材の採用、人材開発、組織・業績管理業務全般を統括する傍ら、日本および北米の政府機関・有力大学・人事労務実務家団体・弁護士協会などの招聘による講演、ワークショップ、諮問委員会などで活躍。『労政時報』はじめ人事労務管理専門誌への寄稿・連載も多数。2012年に三井物産株式会社を退職後、グローバル・プラットフォーム設立。企業や大学の要請で、グローバル人材育成関連のセミナーやコンサルテーションを実施する一方、慶應ビジネススクール、早稲田ビジネススクールで、英語によるグローバル・ビジネスコミュニケーション講座を担当、実務家対象の社会人教育でも活躍中。