文字サイズ
2018.10.22
定森 幸生
企業は、その事業目標を達成する過程で、事業戦略を実行するめに必要な人材を「労働市場」から確保します。労働市場には、社員として組織に在籍する役職者で構成される「内部(社内)労働市場(internal labor market)」と、新規採用の候補者(求職者)で構成される「外部(社外)労働市場(external labor market)」があります。
企業にとっては、在籍社員の中から適任者を選び、人事異動や昇進・昇格によって必要な職位(position)に登用できるのであれば、それに越したことはありません。なぜなら、在籍者のほうが会社の経営理念(mission, vision and values)に対する理解の深さや、企業風土(corporate culture)への適応力において、新規採用者より(少なくとも短期的には)優れていることが期待できるからです。また、その事業戦略を実行するために要求される能力や適性や経験に対する市場価値(報酬相場)が、社内で登用される在職者の報酬水準より高い場合は、人件費の増加分と新規採用者の選考に斯かるコスト(選考関係者の時間的コスト、労力、諸経費など)をトータルで考えれば、(少なくとも当面は)経済合理性の観点からも優れていると考えられるからです。
社内の在籍者の中に、直ぐに登用できる適任者が見つからない場合は、外部労働市場から新規に採用することになりますが、この場合の重要な採用戦略として、採用選考を始める前に、該当する職種や職務について、
(1)市場の報酬相場より高い報酬(above-market)をオファーするのか、その場合、何%程度高い水準とするか
(2)市場の報酬相場なみの報酬(at-market)をオファーするのか、
(3)市場の報酬相場より低い報酬(above-market)をオファーするのか、その場合、金銭報酬以外のベネフィットをどのように提示するのかを決めることが極めて重要になります。その選択をする際に、上記(1)(2)(3)に関して社内で下記の認識を共有しておくことが必要です。
【Above-marketを選択】
一義的には、市場の相場より高い報酬を提示することによって、優秀な候補者や社員の満足度や自尊心を高めることができ、採用後の離職リスクを低下させることが期待できます。しかし、業界の中でも競争が比較的少ない大企業か高収益企業でない限り、全社員を対象に相場より高い報酬水準を支払うことは、業績に与える人件費のインパクトが大きくなります。企業の中には、戦略分野の職務を担う社員グループに対してabove-marketを選択する場合、戦略分野以外の職務を担う社員グループの報酬はbelow-marketとして“帳尻”を合わせようとする例もあります。また、海外進出してから比較的年数が浅いホスト国市場の拠点組織のように、知名度や好感度がまだ確立していない新興企業(start-up company)は、(少なくとも短期的には)この選択をする場合があります。
注意すべきことは、above-market を選択しても、必ずしも優秀な人材の定着率が確保できるとは限らないということです。候補者や新規採用社員にとって、高い報酬だけが就労動機の中心で自社の魅力度や仕事そのものに対する使命感が希薄であれば、景気や社会環境の変化による外部労働市場の動向が変われば、より高い報酬を求めて離職する可能性が高いからです。
【At-marketを選択】
それぞれの業界の中で、認知度や競争優位性が比較的高い企業の多くが選択する報酬水準です。そのため、これらの企業の報酬水準が、大筋で市場相場と一致することになります。国によっては、労働組合の影響で、当初はat-market を選択した企業においても、次第に実質的にabove-market の報酬水準の方向に移行を余儀なくされる例もあります。
【Below-marketを選択】
この報酬水準を選択する企業は、基本的には収益力があまり高くない小規模企業や、設立後間がなく財務基盤が十分に確立されていない企業などがその典型例です。国や地域によっては、全社員のうち女性やマイノリティの占める割合が多い企業も見られます。認知度や競争優位性がある程度高い企業でも、at-market を若干下回る報酬水準の金銭報酬と、様々な非金銭報酬を組み合わせることによって、報酬全体(total compensation)で優秀な候補者や社員の満足度や自尊心を高める報酬戦略を採用している場合があります。
外部労働市場での給与(金銭報酬)相場の動向は、外部労働市場から新規に人材を採用するかしないかに関係なく、企業の全在籍者の報酬管理制度を設計し、運用し、その実効性と社外優位性の程度を絶えず検証し必要な変革を加える過程では常に把握しておくことが大切です。第21回から第23回にかけて触れたとおり、人事管理制度の重要な中長期的目標のひとつは、自社の社員の社内外での雇用(任用)可能性(employability)を高めることです。社員の雇用(任用)可能性が向上するにつれて、在籍者の社内労働市場での評価と社外労働市場での価値の間の差が大きく広がると、会社が中長期的に確保して戦略分野で活用したい人材が、社外で厚遇(金銭面でもそれ以外の業務満足度の面でも)される可能性を求めて離職するリスクが増大することも十分考慮する必要があります。その検証のための有力な判断材料のひとつとして、外部労働市場での給与(金銭報酬)相場の動向は決して過小評価することはできません。
定森 幸生
Yukio Sadamori
1973年、慶應義塾大学経済学部卒業後、三井物産株式会社に入社。1977年、カナダのMcGill 大学院でMBA取得後、通算約11年間の米国・カナダ滞在を含め約35年間一貫して三井物産のグローバル人材の採用、人材開発、組織・業績管理業務全般を統括する傍ら、日本および北米の政府機関・有力大学・人事労務実務家団体・弁護士協会などの招聘による講演、ワークショップ、諮問委員会などで活躍。『労政時報』はじめ人事労務管理専門誌への寄稿・連載も多数。2012年に三井物産株式会社を退職後、グローバル・プラットフォーム設立。企業や大学の要請で、グローバル人材育成関連のセミナーやコンサルテーションを実施する一方、慶應ビジネススクール、早稲田ビジネススクールで、英語によるグローバル・ビジネスコミュニケーション講座を担当、実務家対象の社会人教育でも活躍中。