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2017.08.21
齋藤 志緒理
タイ国における近代教育の萌芽は、19世紀半ばごろに遡ります。今号では、現代につながる学校教育の成立の流れを見てみましょう。
●近代以前の教育(寺院とミッショナリーによる教育)
近代以前の社会では、寺院が人々の教育に大きな役割を果たしていました。仏教徒が人口の9割以上を占めるタイ国において、僧侶は村落の精神的指導者であると同時に、民衆に読み書きや道徳を教える教育者でもありました。男子は7、8歳になると、寺院のデック・ワット(寺子)や「ルークシット・ワット」(寺弟子)となって、寺の中で僧に仕え、身辺の用事を手伝いながら、文字や教典を学ぶ習わしがありました。授業時間は朝食から昼食までの間で、食堂や僧房の廊下が教場となりました。しかし、僧侶は女性との接触が禁止されているため、女子には寺院教育の機会は与えられず、その教育は、家庭において良き主婦になるための行儀作法の見習いに重点が置かれていました。
19世紀半ばには、フランスのカトリック宣教会やアメリカ長老派教会によって、バンコクやチェンマイなどにタイ人向けの学校が設立され、タイ語教育や女子に対する教育が行われるようになりました。教科には、読み書きの他に哲学、数学、地理などが含まれていました。ミッショナリーが設立した学校は、その後、政府立の学校と併行して発展し、近代学校のモデルになると共に、近代学校を補完する役割も担いました。
●王宮学校と庶民学校
19世紀中葉以降、西欧諸国はタイ国に通商を求め、ラーマ4世の治世下、1855年には英国との間に(タイ国にとって不利な、不平等条約である)ボウリング条約が結ばれました。ラーマ4世は、タイ国の将来のために英学の振興が急務と考え、1862年に王宮に英語学校を開設。チュラロンコン王子や王族の子弟に英語、科学、文学などを学ばせました。
チュラロンコン王子は1868年にラーマ5世として即位後、1871年に王宮内に近代的官僚を養成する目的で「近侍兵教習所」を設立。これがタイ国における最初の王立学校で、タイ語文法、算数、行政事務などの教育を行いました。同校は当初、王族や貴族だけに入学条件を限定していましたが、官僚制の進展と拡大に応じて、入学条件を開放し、1881年には「近侍兵幹部学校」に発展しました。
これとは別に、官吏になる者には英語が必要であるという考えの下、1872年には、王子や貴族の子弟を対象に英語を教える王宮学校が設立され、イギリス青年やアメリカ人宣教師が教壇に立ちました。
一方で、教育の一般民衆への普及のため、1875年に「全ての王立寺院にタイ語と算数を教える教師の配置を命ずる布達」が出されます。これは、タイ語と計算のできる王立寺院の僧侶に子どもの教育を担当させるよう命じるものでした。しかし、この時代、実際に王立寺院で教育を受けたのは、上流階級の子弟に限られていました。
1884年、ダムロン親王が兄王の命を受けて、庶民学校の設立を立案し、同年、バンコクに最初の王立庶民学校が設立されました。しかし、民衆は、近代教育を受けることの意味を十分に理解せず、庶民学校の数が急激に増えることはありませんでした。ちょうどタイに徴兵制が導入された時期と重なり、導入を担ったダムロン親王が、同時に、庶民学校の設立を推進していたこと。また、当時、全ての学校の事務が「近侍兵隊」内の事務局によって行われていたことから、国民の多くが、この学校が徴兵目的で作られたのでは疑い、子どもを学校へやることを敬遠したためと言われます。1887年時点で、庶民学校の数は全国で34校、生徒数は2,130人に過ぎませんでした。
●教育行政の整備
地方への学校設置に伴い、1887年には教育局が創設され、1892年には文教庁に、1909年には教育省に昇格しました。
上述の通り、庶民学校の地方普及がはかばかしくなかったため、1898年には地方教育を地方寺院の僧侶に委ねるという告諭を発表。王弟で寺院の大管長でもあったワチラヤン親王がこれを受けて、「(王立寺院に限らず)全ての寺院を教育の場とする」「教科は、読み書き、算数、実業、仏教倫理の4つとする」等の方針を打ち出しました。
これによって、1898年以降、地方寺院に設立された学校は増えますが、僧侶に近代教育普及全般の役割を担わせるのは過重な負担であり、無理があることが判明します。
そこで1908年と1909年の県知事会議において、(教育省の所管であった)首都を除く全国の初等教育普及の責任を各県の知事に移し、これを内務省の所管とする決定がなされました。これは、ラーマ5世が、地方への教育普及は、地方に基盤を欠く教育省よりも、既に統制機能を全国に波及・定着させていた内務省に行わせる方が効果的、かつ経済的と判断したためとみられます。同王は1910年に崩御しますが、翌1911年には(教科書作成などの教育内容については引き続き教育省の担当ながら)、学校の設立廃止・人事・財政などの管理権が内務省に移りました。
次のラーマ6世の治世下では、1917年に初の国立大学が設立され、1921年には「初等教育令」により、義務教育の確立が図られました。(義務教育の年数は 以後、初等教育4年→ 同7年 → 同6年・・・と変遷し、2003年からは初等教育6年+前期中等教育3年の9年間になりました。)
※主な参考文献
村田翼夫「第9章・タイ―独立を保持する近代化の試み」馬越徹編『現代アジアの教育―その伝統と革新』東信堂,1989.
綾部恒雄、永積昭編『もっと知りたいタイ』弘文堂,1982(村田翼夫による「教育」の項)
苅谷剛彦「第2章・タイにおける近代教育制度の発展と公開大学」『研究報告36』放送大学,1991.
●教育の近代化の背景
参考までに、わが国における近代的教育の導入の歴史をみてみますと、1872年に(日本初の近代学校制度に関する基本法令である)学制が発布されたのを皮切りに、教育令や小学校令が次々と出され、1907年には尋常小学校6年間が義務教育期間と定められました。1941年の国民学校令によって初等科6年+高等科2年が施行されましたが、戦時のため、義務教育の延長は実現しませんでした。中学校3年までが義務教育化されたのは、1948年の学校教育法においてです。
タイでも日本でも、教育の近代化が端緒についたのは、19世紀半ばに、西欧諸国と不平等条約を結んだ時期と重なります。タイ国では、ラーマ4世(1851-68)、の治世時に近代科学の導入が始まり、5世(1868-1910)の時代には、統治の中央集権化と官僚組織の整備、徴兵制、鉄道・道路・水道・電信・郵便などの社会インフラの整備、奴隷制廃止といった様々な方策がとられました。社会の発展や、国民生活の向上を見据えての方策ですが、その背景には、植民地支配を逃れるという喫緊の課題がありました。すなわち、西洋列強に植民地化の口実を与えることがないよう、タイ国が“高度な文化、文明をもった、規律と尊厳のある国”という確固たる印象を与える必要があったのです。教育の近代化も、歴史を俯瞰すれば、こうした文脈の中で進められたものでした。
次号では、タイにおける大学のはじまりとその後の、高等教育機関の増加をテーマに記します。
齋藤 志緒理
Shiori Saito
津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。