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2016.07.25
小川 達大
6月末、在ホーチミン日本国総領事館のウェブサイトに、ある情報が掲載されました。タイトルは「大規模デモ発生に関する注意喚起」。
実は更に遡ること2か月弱前の5月初旬には、ベトナム各地でデモが起こっていました。ベトナム中部の沿岸で魚が大量死し、岸に打ち上げられるという事案が相次ぎ、この地域で建設中の製鉄所からの排水が原因であるという見方が広がったのです。デモは、その製鉄所を建設している台湾企業(台湾プラスチックグループ)の撤退を国民が求めるものでした。これだけ全国的なデモが起こるというのは、あまり多くないことです。
冒頭の注意喚起は、この大量死事案の調査に基づいた政府見解が6月末に発表される予定であったことを踏まえたものです。その政府発表は、台湾プラスチックグループの製鉄所(建設中)からの廃液が魚の大量死に関連しているとして、約500億円の罰金を命じるものでした。同製鉄所は6月下旬に予定していた稼働開始を延期して、環境対策を講じることになりました。この製鉄所はベトナム初の高炉一貫製鉄所であり、ベトナム政府として悲願でありますので、企業側に甘い姿勢になることも有り得たかもしれません。しかし、国民の怒りの声を受け入れて、環境汚染の責任を追及し、罰金を命じることになりました。
ベトナムなど新興国では、国民の安全と外資企業の誘致は、たびたびトレードオフの関係にあります。新興国にとっては、国外(外資企業)からの投資が経済発展の大きな鍵です。一方で外資企業は、ローコストを実現できる場所として新興国を魅力に感じています。ローコストは、突き詰めれば人件費の安さです。人件費の安さは、裏を返せば(あるいは、「ヨソ行きの皮を脱げば」と言えるかもしれません)、命の安さでもあります。これは、良いか悪いかの問題ではなくて、それ以前に事実だと思います。私自身もベトナムにある工場を視察すると、人件費の安さ、いや、命の安さを実感することがあります。日本よりも環境規制が弱いという状況を受けて、環境対策や安全対策が(日本基準から見れば)十分でないようなこともあります。
世界的に見れば人件費が安いといっても、その国の中で相対的に「良い給与」ということであれば労働力が集まります。国内で相対的に「良い給与」は購買力を高め、企業の利潤が増え、そうして経済を動かし発展させます。そして人件費の水準がまた上がる。外資企業が魅力だと言う「人件費の安さ」とは、そういう螺旋状の経済発展構造の中に存在しているものです。「モノの値段には理由がある」というのは、世の常です。
最近は、人件費の安さ、その結果として製品の安さを実現している構造に対して、消費者も意識を向ける時代になりました。例えば90年代にナイキは、東南アジアでの児童労働等を問題視され、不買運動に直面しました。特に消費者向けのビジネスでは、人権侵害はブランド価値を実際に毀損するリスクのあるものとなりました。企業のイメージ作りや社会的責任という範囲を超えて、もはや商売の損得勘定の中にも人権対応を考慮に入れなければならないということになります。多国籍企業にとって、自社の現地工場だけでなく、新興国現地の下請け工場も含めて、人権侵害の可能性と実態の精査と対策を検討するのが一般的です。企業としては、天災に備えてコンティンジェンシープランを作っておくのと同様に、人権侵害に関しても事前のインパクトの精査と対策が必要です。
こういった状況に、日本企業は、どう対応できるでしょうか。日本企業は、他社(サプライヤー、下請けなど)も含めたサプライチェーン全体の長期的な関係を大切にする、という風に言われています。しかし新興国における人権侵害への対応については、多国籍企業よりは重要視していないように思います。日本社会全体として、新興国での人権侵害に対して声を上げたり、更には不買運動にまで発展したりすることが少ないような印象ですので、そういったことも関係しているのかもしれません。つまり、日本企業にとっては、人権対策は、企業のイメージ作りや社会的責任の範囲にとどまっていて、商売の損得勘定には影響を与えていないのかもしれません。もう1つ理由を上げるとすれば、日本企業/日本人の「ウチとソトの発想」があるのかもしれません。自社のサプライチェーンを力強く支えていたとしても、新興国で働く現地の方々をソトの人間であると(無意識に)認識して、ソトの人に対する人権対応が疎かになってしまうことも起こっているように思います。
ちなみに、国際社会も対応を強化しています。国際連合は、「ビジネスと人件に関する指導原則」を承認しています。その指導原則は、「人権侵害から自国民を守る国家の責任」「人権を尊重する企業の責任」「救済手段に簡単にアクセスできることの重要性」の3つの柱で構成されています。国家と企業と国際社会、さらには消費者が、協調して、人権を尊重していくことが大切な時代にあります。
それでは、ヘンガップライ!
小川 達大
Tatsuhiro Ogawa