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2015.06.15
宍戸 徳雄
今までのコラムでは、経済や政治を中心に見てきましたが、ここからは、少しミャンマーの歴史を概観していきたい。
1948年、ビルマは長く続いたイギリスの植民地支配からの独立を果たした。イギリス政府と粘り強く独立交渉に尽力したのが、ビルマ建国の父として国民から愛され続けているアウンサン将軍だ。現在最大野党(NLD)の党首であるアウンサンスーチー女史の父だ。彼は、イギリスからの独立運動、そしてその後の日本軍による占領時代における抗日運動において、リーダーシップを発揮した。日本の敗戦後、1947年1月にイギリス政府と、1年後のビルマ独立の協定を締結するが、独立を目前に控えた1947年7月に糾弾に撃たれ、帰らぬ人となった。
アウンサン将軍は、もともとラングーン大学で学生運動のリーダーとして頭角を現し、後に、BIA(ビルマ独立義勇軍)を率いて日本軍で訓練を受け、日本軍と共に、イギリス軍との戦線に参加した。
アウンサン将軍が目指した国家とは、イギリスからの独立を果たし、少数民族の自治権を尊重した形の連邦制の創設であったと言われている。すでにこのコラムでも書いたが、ミャンマーにおける少数民族紛争は、その後半世紀以上経った現在においても未だに終結に至っていない。アウンサン将軍が目指した対話型の民族融和をベースとした連邦国家の実現が、2015年の総選挙によって国民の意思に基づき実現されることが期待される。
アウンサン将軍の死後、ビルマは、ウーヌー政権により社会主義国家への路線を歩むことになったが、その穏健路線に異を唱えたネーウィンが、1962年、軍事クーデターを起こし、ビルマ式社会主義と言われるイデオロギーの下、一党独裁・産業の国家独占を進めた。このネーウィンによるビルマ式社会主義体制は、1988年の民主化運動によって崩壊するまで続くことになる。ネーウィンによる26年間の独裁体制下で実施された計画経済政策は失敗し、戦前はアジアで最も豊かであったミャンマーは、他のASEAN諸国対比著しく社会経済的な発展が滞り、アジア最貧国の地位へ凋落することとなった。ネーウィンによるビルマ式社会主義体制は、民主化運動によって崩壊したが、その結果、生まれたのは、軍事政権というミャンマー国民にとっては更なる試練が待ち受けていた。ここで発足した軍事政権は、後に改組してSPDC(国家平和発展評議会)となる悪名高きSLORC(国家法秩序回復評議会)である。
以後、20年以上に亘り、ミャンマーは、国際社会から隔離された更なる暗黒の時代に突入することになる。
宍戸 徳雄
Norio Shishido