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2015.07.13
宍戸 徳雄
1988年の大規模な民主化運動によって、ネーウィンによる社会主義体制は崩壊したが、国軍が民主化デモを鎮圧し、その後、国政を掌握し政権の座に就いたのは軍事政権であった。この軍事政権は、軍のトップであったソーマウン、そして後継のタンシュエと、その後20年以上に亘り続くことになる。軍事政権は、ネーウィン政権による社会主義経済システムの停滞から脱するため、外資導入や市場経済の導入などを想定した開放路線を選択した。しかし、軍政による非民主国家の烙印を捺されたミャンマーは、アメリカやヨーロッパによる経済制裁によって再び国際社会から孤立することなる。経済制裁の影響は想像以上に、ミャンマー経済を締め付け、経済成長をストップさせる。
軍政時代の悪政の象徴として国際社会から大きな批判を受けたのが、2000年に実施された総選挙の結果を反故にしたことだ。同選挙において、アウンサンスーチー女史率いるNLDが圧勝したにも拘らず、民政移管のためには憲法改正が必要であるとして、議会を招集せずに選挙結果を無視して政権に居座った。軍事政権下で、表現の自由、集会の自由、通信の自由は認められず、過度の情報統制が敷かれた。反政府デモに対して軍は発砲する事態を幾度となく起こした。この後、軍事政権は、軍主導の民主憲法の制定作業に進んでいくが、この間、政敵であるアウンサンスーチー女史を、計3回、約15年間に亘り自宅軟禁したことによって、ミャンマー軍事政権は、更なる国際社会からの非難を受け、経済制裁の強化によって、いよいよ八方ふさがりの孤立状態に陥ることになる。このような中、1991年に、軟禁中であったアウンサンスーチー女史に対して、ノーベル平和賞の受賞が決定された。
ミャンマー軍事政権と国際社会の緊張が高まる中、1993年、軍事政権は、憲法制定のための国民会議を開催、その後2003年には、7段階の民主化ロードマップを発表した。そして、2008年には念願の憲法制定のための国民投票を実施し、賛成率92.4%の信任を得る形で、ミャンマー連邦共和国憲法が成立することなる。
このころ、アメリカは、ミャンマーに対して対話政策への転換を図る(2009年、クリントン国務長官談話)。2010年には、政党登録法が成立したものの、禁固刑受刑者に被選挙権及び政党員たる資格を認めない法律であり、これに対する批判を強めたNLDは政党登録をせずに選挙をボイコット。軍事政権は、2010年7月、新憲法の下、予定通り総選挙を実施し、軍の傀儡政党であるUSDP(連邦団結発展党)が圧勝する結果となった。軍政は、総選挙後に、アウンサンスーチー女史を自宅軟禁から解放した。
この後、2011年に、テインセイン政権が発足、テインセインが大統領に就任。テインセイン大統領は、今までの軍事政権時代とは大きくスタンスを変更、自宅軟禁から解放されたアウンサンスーチー女史との対話政策へ転換する。ここからついに雪解けが始まり、民主化への道のりが本格化することになる。
宍戸 徳雄
Norio Shishido