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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2016.02.15

「悠久の国インドへの挑戦」29 労務問題 そのⅡ

藤崎 照夫

Innovative Film City (インド・バンガロール)

今月は先月に引き続きストライキ発生後の話を進めて行きたいと思います。

ストライキが発生した後、当然ながら私は本社にその内容を伝えました。
本社からはインドを含む途上国全般を統括する本部長から「駐在員の心身の安全を第一優先に考えること」という指示が送られてきました。これには訳がありました。先月号でお伝えしたように今回のストライキは2回目ですが、1回目のストライキの時に現地人従業員が駐在員の身体をこずいたということがあり、工場で働く駐在員が騒動に巻き込まれてけがをしたりすることを懸念した為のようです。

ストライキ発生後も私を除く駐在員は従来通り工場へ通勤して仕事を継続していました。工場内では多くの生産ラインの従業員が出社していないので、通常の生産は出来ませんでしたが、工場の間接部門の従業員や幹部社員を生産ラインにつけることと、販売店のサービス担当のメカニックの人達にも応援に来てもらい細々ではありますが、生産は継続していきました。毎日の現地の状況や生産台数はFAXで本社へレポートを続けましたが、私の前任者が私への引き継ぎの中で「ストライキは二度と起きないよ」と言って帰国したので、その直後のストライキ発生に驚きしばしば担当者に様子を聞きに来ていたそうです。

職場放棄をした従業員はどうしていたかと言いますと、大半は自宅にいてストライキの動向を気にしていたようですが、一部の従業員は工場の前の芝生の広場に集まりトランプをしたり、ラジカセで音楽を聞いたり、それに合わせてダンスをしたりとのんびりしたムードでした。ストライキ中は私も1週間に1度くらいは工場に行っていましたが、彼等は私の車を見ると手を振ったりして、どちらかといえばのどかな雰囲気でした。

経営陣としてはストライキの収拾に向けて色々な動きを始めていました。先ず工場のある町や州政府に調停をお願いすると同時に、その町の有力者から従業員の家族への説得もお願いしました。地元警察には引き続き工場の警護をお願いしました。また、パートナーのところには毎日彼と親しい部品メーカーの人達が訪ねて来て対応策を相談していました。私は赴任して1ヶ月も経っていないので具体的に活動するのは難しかったので、現地のパートナーに対応はお願いして生産調整や日本とのコンタクトに努めました。

然しながらストライキは依然として続きましたがストライキ発生後1ヶ月ぐらいしてからでしょうかある噂が流れました。それは外部の有力な労働団体が2000名ぐらいのオルグを動員して工場へ乗り込んでくるというものでした。インドには既に多くの労働団体がありましたが、極右や極左もあり、彼等は有力な会社の組合を傘下に収めるのにしのぎを削っていました。もしそれだけのオルグが来たら大変なことになります。この続きは次回に―。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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