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2016.08.01
藤崎 照夫
インドへ戻った翌日の早朝ラーマンさん宅へ弔問に出かけました。ラーマンさんの父親で会社の会長であるラルさんが出てきて、私達の顔を見るなり体を震わせて泣き出し、こちらもかける言葉もなくただうつむくのみでした。その後会社へ出社し幹部社員に対して「ラーマンさんの夢を実現するのが残された我々の使命だ。全員力を尽くして頑張って欲しい」と話をしました。
夕方にパートナーのファミリー全員が会社を訪問し、社員全員に「ヒーローホンダを今後もよろしく頼む」と会長から挨拶がありました。ラーマン夫人の放心状態の顔を見るといたたまれなくなってしまいました。
本当に予期せぬ事態でしたが、会社の業務をストップさせるわけにはいかないので、私は翌日は定刻通りに出社して、インド人スタッフに指示をしたりして仕事を進めましたが、心の中では「パートナーがいなくなってこれからどうやって会社の経営をやって行ったらいいだろうか」と内心の不安は大きくなって行きました。その翌日、ラーマンさんと一緒に常勤役員として仕事をしていた弟のパーマンさんが出社し、私に「ホンダの規定でインドの駐在は3年間だというのは知っているが、このようないわば非常事態になったので藤崎さんと鈴木さんの駐在延長をホンダにお願いしたいので了解して欲しい」と話がありました。私も共同社長としての責任上それは覚悟しなければいけないなと考えた次第です。
それから4日後工場で告別式を行いました。いつもは集会ではうるさい工場の従業員もこの日は流石に全員神妙な顔で話を聞いていましたが、ラーマンさんの遺影に手を合わせる父親のラルさんの肩を落とした寂しそうな姿が見ていられませんでした。その翌日には日本からの弔問団として本部長常務、部長と私の前任者であるS氏の3名が到着し正式な告別式の段取りなどを説明。6月30日にデリー市内のある小学校の体育館を借りて告別式を催行しましたが大変盛大な式典でした。これは現役の社長の突然の死去であると同時に故人の人柄のせいだと思いました。
その後暫くしてパートナー側より「会長のラルさんが会長兼務で社長をやる」という申し出があり、それが一番自然な形で業務遂行への影響も少ないということで、ホンダ側も同意しラルさん、私、パーワンさん、鈴木氏の4名の常勤体制で会社の経営を続けることになりました。それから暫くは販売店大会や部品メーカー大会などのイベントの際必ずラーマンさんの遺影が飾られ、全員黙祷をしてからイベントを開始するという状況が続きました。
会長のラルさんは自転車部品の販売の小さな商売から始めて自転車生産を手掛けて当時は既に世界一の生産量の自転車メーカーに育て上げた人物でした。結局私は1年後に日本側の定期人事異動で本社の部長で帰国することになりましたが、この1年間の間にラル会長から会社の経営というのを色々学ばせて貰ったと今でも感謝しています。このラル会長も昨年11月に91歳で亡くなられましたがその告別式には2万人の人達が参列し別れを惜しんだとのことです。
藤崎 照夫
Teruo Fujisaki