文字サイズ
2015.07.13
菅野 真一郎
中国現法運営のポイントは、圧倒的多数の中国人職員のヤル気と能力をどうやって最大限引き出すか、そのためには、日本人と中国人双方の職員が共有できる経営理念を確立することであることは既に述べた通りですが、その経営理念の浸透と徹底を図るには、人事管理、労務管理を如何にうまく行うかだと思います。
人事管理、労務管理の専門的技術的問題は専門家にお任せするとして、その運営の要諦は「太陽政策」即ちイソップ物語の「北風と太陽」の太陽の考え方だと思います。北風と太陽が旅人の外套を脱がせるのを競って、北風は強い風をビュンビュンあてるのですが、風が強くなるほどに旅人は外套をしっかり羽織って離さない、太陽はポカポカと光をあてるだけで旅人は暑くなって自分で外套を脱いでしまうという寓話です。
1949年の中華人民共和国成立後長年に亘って資本主義諸外国との交流を基本的に遮断してきた中国は、1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(11期3中全会)で経済改革・対外開放政策を採択し、政治・経済・文化など多方面で外国との交流が開放されました。対外開放による外国文化との接触は、見る物聞く物全てが驚きと戸惑いの連続であったことは間違いありません。
「改革・開放の総設計師」と言われる鄧小平氏自身、1920年から25年まで、16歳から21歳まで「勤工倹学」としてパリ留学の経験があるものの、その後は一貫して国内での軍事・革命活動に没頭し、50年後の1974年4月、国連資源特別総会に団長として参加するため初めて渡米し、明るく発達したアメリカ社会の空気、事物に驚き大いに触発されたと言われております。この時の市場経済、自由主義経済大国アメリカの見聞が、以後改革・開放政策推進の大きな後ろ盾になったと私は思います。
私が勤めた銀行のある長老は「中国との経済交流には啓蒙の精神が欠かせない。1970年代交流の初期の頃、中国の経済建設には長期資金調達による設備投資が必要であることと、そこで果たすべき銀行の役割を説いた時、金利の概念を理解してもらうのに2~3年を要した。次に長期借入金の返済源資即ち減価償却費を理解してもらうのに苦労した」と述懐しておりました。
1990年6月、その長老が、経済・金融担当の鄒家華副総理と北京で会談した折、経済建設における金融の役割が話題になって、鄒家華氏が「計画経済時代は財政が大きな役割を果たしたが、市場経済化を進める今は金融が非常に重要であることを痛感している」と語ったのが印象的でした。
中国の指導者にとって、新しい市場経済体制をつくりあげていく上ですべてが初めての経験であり、従って中国との信頼関係構築には、日本の戦後復興の経験―それは成功体験よりむしろ失敗の経験―を丁寧に説明することが評価されるのではないかと実感したことを憶えています。
有人宇宙衛星を打ち上げる中国は、ある面で日本よりも遥かに進んだ科学技術先進国かも知れませんが、それはまだ国民の一部分であって、大多数の国民のレベルは発展途上国だと思います(但し、前にも述べたように中国人の資質は優秀ですから、ひとたび物事の本質を理解すると、あとはどんどん理解の巾が広がり、応用範囲も広くなり、我々の水準を遥かに凌ぐことは、現在の中国の経済発展状況が証明しています)。
従って中国人との交流に際しては基本的には親切丁寧な対応を心掛けるべきだと思います。「こんな簡単なことがわからないの?」とか「これは前にも説明したじゃないか」という上から目線の態度は良くないことは言うまでもありません。
社員教育・訓練でも商談でも、あくまでも本当に理解してもらうまで根気よく説明する、繰り返し説得する、相手がどこがわからないのか推察して(一般に中国人はほとんど誰でも「わからない」「知らない」と言いません)、そこをより詳しく説明するなどの対応が必要です。ここでも日本からの派遣人材の要件「さんま」―まじめで、まめで、がまん強い―とりわけ「まめでがまん強い」点が生きてくる訳です。
また合弁会社のトラブルでよく耳にするのは(私が勤めていた銀行が関与している合弁会社の経験でもありますが)、中国側パートナーとの意思疎通、コミュニケーションのギャップによる相互不信です。この問題も、一方的に日本のやり方を押し付けるのではなく、相手や中国人社会の習慣にも配慮し、粘り強く意思疎通を図ることで解決する事例は沢山あります。
つまり相互理解の基本も、普段から「太陽の心」「啓蒙の精神」そして「さんまの心構え」でコミュニケーションに努めるということだと思います。
(つづく)
菅野 真一郎
Shinichiro Kanno