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2016.02.29
菅野 真一郎
これまで7回に亘り、主として「人の現地化」の必要性といくつかの日本企業での工夫の事例を紹介しました。前回は、内陸進出で成功しているイトーヨーカ堂(四川省成都)と平和堂(湖南省長沙、株洲)について、「人の現地化」のキーワードは「事業は人なり」であることを、それぞれの経営者の言葉を通じてご紹介しました。今回は、成功事例の共通した要因についてまとめてみたいと思います。
別の表現で言えば、経営者は「決してあきらめない」ということに尽きます。
松下幸之助氏、稲盛和夫氏、スティーブ・ジョブズ氏、カルロス・ゴーン氏等が経営を語るとき一番強調される言葉でもあります。あるいは業績をどん底から再生した数多くの経営者の回想に出てくる象徴的な言葉といってもいいかもしれません。
中国事業でも、経営者のこの執念が事業成功の大きな拠り所となっています。
私自身、中国のある地方都市の日本事務所の中国人責任者(本業は医師)からお聞きした次言葉が耳に残っています。
「中国では簡単に出来ることはひとつも無い」
「中国では絶対に出来ないことはひとつも無い」
1978年10月、中国の鄧小平副総理がその年の8月12日北京で調印された「日中平和友好条約」の批准書交換のため来日した折、大阪府門真市の本社工場を案内したご縁で、松下幸之助氏は1979年、1980年、生涯2度訪中しています。1979年初めての中国訪問の感想を述べた対談の最後で、中国人の優秀性について言及しています。
「技術的な面ではいろいろ解決していかなくてはならない問題もたくさんあるでしょうが、何よりも中国の人々、特に首脳者の方々の近代化にかける熱意、それから謙虚さといいますか、私の話でも耳を傾けてよく聞くという姿勢、そして、その中でとるべきものは取りあげていく柔軟性、さらに、過去の歴史を見てもわかるように、中国の人々の優秀性。そういうものが総合されれば多少の早い遅いはあっても、中国は十分、今世紀末には先進国の一員になると私は感じましたね。」
(出所:PHP研究所発行『Voice』1979年9月号)
今から30数年前、現在の中国を見事に見通しているその慧眼に、敬服するほかありません。
江蘇省泰興市で中国人女性工場長以下女子工員550名を教育して現地化に成功、高級手編みアウターニットを製造し、コシノジュンコや三宅一生など日本の著名なデザイナーのパリコレ作品も手がける泰興福岡ニットの田中雄一郎総経理は、「中国で儲けさせてもらっているという感謝の気持ちが大切」といいます。
2015年1月、日本経済新聞の『私の履歴書』に登場した王貞治氏は、日中国交回復(1972年9月)以前から中国の折江省から日本に来て中華料理店を経営していた父親の王仕福から「日本に来て、日本に生かされているという感謝の気持ちを忘れるなと言われ、偉ぶったりおごったりして日本人から反発をかうことを戒められていた」と語っています。異国で仕事をするあるいは生活するときの大切な心構えだと思います。
この点は今までも度々ご紹介していますので、繰り返すまでも無いことだと思います。
中国でも日本でも世界中どこでも経営の基本は絶え間ない経営の革新(イノベーション)であることは論を俟ちません。とりわけ変化の早い中国では、消費者や市場のニーズをいち早く汲み取り変革していかなければ、あっという間に市場から排除されてしまう事例は後を絶ちません。中国で創業20年を超える日本の企業はいずれもこの試練を果敢な変革で乗り越えてきているといっても過言ではありません。
1987年11月、新疆ウイグル自治区ウルムチ郊外で始めたサッポロビールのアロマホップの栽培合弁は、当初20年の期限を更に延長して初代中国人総経理高智明氏が今日まで務めています。日本側から派遣された梅田勝彦初代副董事長は、大学の農学部遺伝育種教室出身で、アロマホップの無農薬栽培を実現し、次にホップの実のペレット化、更にエキス化と、中国人技術者教育と設備導入により次々と改善を進め、成功を収めています。
前述の泰興福岡ニットの田中総経理も、スピードと正確さを要求される著名デザイナーの要求に応えるため、いち早くCAD,CAMやテレビ会議システムを導入したほか「目切りの機械」と称する独自の手編み機械を発明して活用して毎シーズンの継続受注に成功しています。
(この項つづく)
菅野 真一郎
Shinichiro Kanno