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2016.09.05
菅野 真一郎
ここまで37回にわたり、主として中国駐在の心構え的な切り口で縷々述べてきました。ここからは駐在員として自社事業の円滑な運営を進めるうえで注意して頂きたいポイントを、トラブル事例や、日本や中国で今でも跋扈している悪徳ブローカーの事例などを使ってご紹介していきたいと思います。当事者にとっては恥であったり不都合な実例ですので、業種、場所、社名、個人名など該当者が特定できる事項は伏せたり脚色させていただきますことを、ご了承いただきたいと思います。
今回は、工場完成を間近に控えた現地法人責任者と税関当局とのトラブルに関する事例をご紹介したいと思います。
日本の親会社A社は家庭用医薬品、化粧品、トイレタリー用品の老舗の有力メーカーです。香港から中国本土への輸出が好調でマーケット調査をしてみると、男女別、年層別、地域別でも広範な支持を得て中国内需要の将来性が大きいと判断して、沿海地区のある工業開発区に独資による工場進出を決めました。初めての中国工場ということで、大手企業で中国ビジネス三十余年、中国語が堪能なベテラン社員を、現地法人総経理として招聘しました。
ある時、A社との取引窓口である地方支店の営業担当者から「社長から中国案件で折入って相談したいことがあると言われたので来て欲しい」との要請があり、A社を訪問しました。
社長と海外担当役員のお話は、「工事は順調で間もなく竣工予定、国内販売の準備も着々とすすめているさなかに、総経理が税関でパスポートを取り上げられ、このままだと裁判沙汰になるという報告が入った。総経理本人は比較的元気そうで、『それほど心配はいらない』と言ってきているが、大丈夫だろうか」というものでした。
私はお話をうかがって、その場ですぐに1990年代はじめ上海の日系企業の間で大きな話題になった“シャンプーをめぐる裁判事件”を思い起こし、その概要を社長にご説明し、A社案件もその二の舞にならないよう早急な対応が必要ではないかとお話をしました。
上海のシャンプー事件というのは、日本の業務用シャンプーメーカーB社が上海に工場を立ち上げ、当時は珍しかった国内販売を順調に拡大していた矢先に、上海市民のある老夫婦から、「B社のシャンプーを使用しているが、夫婦共に髪の毛が抜けてしまった。慰謝料を支払え」と訴えられたものです。技術者出身の総経理(兼工場長)は、「当社製品ではあり得ない事故」として慰謝料支払いを拒否しました。B社の調査では老夫婦共にある病気のため通院中で、症状は治療の副作用の可能性が高いということも判明しました。くだんの老夫婦は簡単には引き下がらず、慰謝料金額を当初の数百万円から執拗に二~三度にわたり引き下げ百万円以下まで下げてきて、「もしこれも拒否すれば『解放日報』(上海市の共産党機関紙)に記事を書かせ、裁判に訴える」と伝えてきました。この時点で上海の日系企業の駐在責任者の集まりである「上海日系三資企業部会」で、部会長から「会員企業のB社総経理から今後の対応について皆さんのお智恵をお借りしたいとの申し出がある。どうすべきだと思いますか」との問題提起がありました。「後々の事態は予測し難いものがある。譲歩はくやしいがこの際慰謝料支払いは己むを得ない」という意見もありましたが、大半はB社総経理の毅然とした対応を支持し、裁判で白黒をつけるべきで、三資企業部会も支援すべきというものでした。三資企業部会長も同じ意見でした(小生自身も裁判派の一人でした)。
詳しい経緯は記憶が定かではありませんが、解放日報では老夫婦の主張が掲載され裁判になりました。しかし幸いなことに裁判はB社の全面勝利となりました。ところが問題はその後に起こりました。それまで営々として築き上げてきた販売店の商品棚からB社の製品は全て姿を消しました。販売店が言うには、「解放日報でたたかれ、裁判沙汰になった商品は扱えない、売れない」というものでした。
私はA社の社長に次の様に述べました。
「パスポートを取り上げられるというのは外国人にとって尋常ではありません。税関とのやりとりの内容はともかく、貴社総経理は税関の人のプライドを傷つけ、いたく怒らせてしまったのかもしれません。言葉遣いや態度、事情説明の対応(準備資料が不十分だったり中途半端)に問題があった可能性があります。日本人はいくら中国語が堪能といっても、つい気安くぞんざいな言い廻しをして、まとまる話もまとまらないということはよくあります。」
「従って出来るだけ早く本社から位のある責任者が当該税関に出向き、事情聴取をするなど、パスポートの返還、裁判取り下げを願い出るべきではないかと思います。場合によっては総経理を替えないと、税関も振り上げたこぶしが下ろせないと思います。」
「更には当該開発区管理委員会を訪ね、裁判回避の支援を要請すべきだと思います。開発区管理委員会にしろ、税関にしろ、一般には裁判は避けたいというのが本音だと思います。何故なら、裁判沙汰になると、外資としてはそのような場所に工場立地することはどちらかというと避けたくなるのが人情です。」
「上海シャンプー事件の教訓からみて、裁判以外の解決策を探す方が得策です。せっかく工場が稼動して製品を出荷しても販売店が逃げてしまいます。」
「幸い当該工業開発区に十数年来の日本人老朋友がいて、彼は各方面の行政機関とは親しい関係を構築していますので、出来るだけの情報収集をしてみます。」
A社のご依頼で老朋友をご紹介し事情調査を行って判明したことは、工場建設期間中に解雇したある中国人職員がA社総経理に恨みを抱き、些細な事柄を税関に“密告”し、事情聴取に出向いた総経理が税関職員と激しくやり合ってしまったというものでした。事態の詳しい顛末は省略させていただきますが、結果は小生が勤めていた銀行も親しい関係にあった工業開発区管理委員会幹部のお力添えと小生の老朋友の尽力、A社トップの迅速で丁寧な対応が効を奏して、程なくパスポートは返還され、総経理は交替帰国(後任は本社海外事業担当役員)、裁判採り下げ、工場は無事竣工、操業開始の運びとなりました。
本件事案にはいくつかの教訓が含まれていますので略記してみたいと思います。
(1) 現地駐在責任者は、日頃「気配り、気働き」に留意し、恨みをかうような人間関係をつくらないよう心掛ける。逆に中国人との相互信頼の構築に心掛ければいざという時に周囲の中国人が助けてくれる可能性が大きい。
(2) 現地駐在責任者は日頃から現地行政機関との良好な関係構築に努める。年一回のカレンダー配布、創立記念日や春節前に行う現地法人の宴会行事等に各種行政機関の関係者を招待するなどの気配り、気働きが大切です。招待漏れや宴席の席次に注意すべきことはすでに述べました。ただし、中国の各種関連法令の遵守が前提です。
(3) 厳しい交渉事や行政機関との公的会談・面談では必ず複数であたる。単独で対応すると本人以外事情がわからず、客観的情報が得られず、適切な対策が立てられない(当事者は往々にして「自分の言動は間違っていない」式の自己防衛、自己保身的説明に陥り易い)。
(4) 日頃から会社に忠誠心が高く、礼儀正しい通訳(中国人、日本人を問わず)を最低一人は育てておく
(つづく)
菅野 真一郎
Shinichiro Kanno