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COLUMN コラム

世界最北の日本レストラン フィンランドで苦闘したあるビジネスマンの物語

2015.03.16

【世界最北の日本レストラン―フィンランドで苦闘した あるビジネスマンの物語(52)】黄色いマフラー

長井 一俊

スノーモービルで遊ぶ筆者

スノーモービルで遊ぶ筆者

3月に入ると高緯度にある北欧では、日照時間が加速度的に長くなる。「畳の目ほど」日が延びると言われる日本とは、大いに趣を異にする。冬至は真っ暗、夏至は白夜と言う極端から極端への移行によって生じる、天体メカニズムである。地球の自転軸が太陽を周回する公転面に対して、約23.4度傾いている事が主たる原因だが、地球の公転軌道が円ではなくて楕円である事から、私たちが習った2次元数学では、正確な日照時間の伸縮を算出することはむずかしい。とにかく春分が近づくにつれて、北欧の春は大股でやってくるのだ。

この時期、人々は青空の下、最後の冬スポーツを楽しむ。丘陵地ではノルデイック・スキーを履いてクロスカントリーを、凍った湖上ではスノーモービルを疾走させる。私もポリ郊外の湖畔にあるキモさんの別荘に招かれて、彼の子や孫達とウインタースポーツを楽しんだ。

この年の北欧の冬は暖冬と言われ、特にここ数日はボスニア湾を超えて来る南西の暖かい風が心地よかった。いよいよ私の店にも客が戻って来る。“春や春、春南方のローマンス”というサイレント映画の活弁士の名文句が思わず口をつく。

しかし、このポカポカ陽気に騙されてはいけない。私は危うく大事に遭遇しそうになった。それは、ポリの市営アリーナでシーズン最後のアイスホッケー戦が行われた晩のことである。この試合に勝ったポリチームの主力である友人のファンドル選手が、仲間と大勢のファンを引き連れて店に来てくれた。店頭の照明を消し、閉店したことにして、私も祝いのパーティーに参加して大いに飲んだ。店のかたづけをして、帰宅しようとタクシー・センターに電話をしたが、何回かけても話し中だった。無理はない。99台しか無いこの町のタクシーに、多くのサッカーファンが乗り込もうとしているのだ。それではと、数ブロック先のタクシー乗り場に行ってみたが、そこにもタクシー待ちの長い列ができていた。

丁度この時、南西風が北風に変わって、街は一挙に北極気候に飲み込まれてしまった。一度に酔いが醒めて、私は帽子と手袋を探したが、ポケットにもバッグにも入っていなかった。店まではさして遠くはないのだが、取りに戻ったら、列の一番後ろに並びかえさねばならない。

耳たぶが痛くなりはじめた。まずい、下手をすると霜焼け程度では済まなくなる。重い凍傷を負えば、耳を切除しなければ・・・。この国で「耳無し芳一」にはなりたくない。耳を無くしたら、眼鏡はどう掛けたら良いのか…?そこで、手で耳を覆うことにした。するとたちまち指が猛烈に痛くなってきた。耳を無くすか、指を無くすかの選択に迫られた。

もし指を無くしたら、明日の寿司が握れない。私は、両手をポケットに戻した。その時、すぐ後ろに並んでいた背の高い女性が、地面に置いていた小型の旅行鞄を開けて、黄色いマフラーを取り出して、私に手渡してくれた。

ファッションは繰り返される。かつて大流行した丈の非常に長いマフラーが又戻って来たのだ。お陰で、私は顔全体をぐるぐる巻きに出来た。この長いマフラーは当地では“イサドラのマフラー”と呼ばれている。娘がこの長いマフラーをして外出しようとすると、母親は“気をつけるのよ、イサドラみたいにならないように!”と注意する。イサドラとは、スパイのマタハリと並んで、ヨーロッパが20世紀に生んだ女性レジェンドの第一人者である。簡単に彼女を紹介しよう。

彼女の名はイサドラ・ダンカン。1877年にサンフランシスコで生まれ、1927年に没する。死後、その数奇な運命から「悲劇の舞姫」「美の化身」「バレー界の革命児」等多くの形容詞が冠せられた。彼女は米国から欧州に移り住み、バレーの本場であったパリ、ウイーンやサンクトペテルブルクで異色のバレーを披露して大人気を博した。多くの有名人、ロシアの詩人セルゲー・エセーニンやドイツの作曲家ジークフリード・ワグナー(祖父はフランツ・リスト、父はリヤハルト・ワグナー)等と多くの浮き名も流した。ニースでの舞台の後、沢山のファンに見送られながらイタリアの名車ブガッティーに乗って演舞場を後にした。発車直後、長いマフラーの先がタイヤのスポークに絡まってしまい、停車した時には、イサドラの千切れた首が、50メートルも後ろで見送るファン達の前に転がった。一世紀近く前の話だが、北欧では今でもよく、言の葉にのぼる。

日本人は忘れ上手だ。「いやな話は忘れましょう!」「昔の事は水に流して、前に進みましょう!」が日本人の正論であり、徳でもある。北欧人はそうでは無い。私が、『フィンランドでも、中世には魔女狩りが行われましたよね!』と言うと、彼らは顔を曇らせて、『ご免なさい』と自分が犯した罪のように謝る。

ロシアン・クラブの会合で、『ロシアの多くの地は13世紀の中頃から15世紀の終盤までの250年余、タタール(モンゴルの一派)に占領されて、残忍な扱いを受けましたね!』と話すと、『“タタールの軛(くびき)”は、決して忘れない恥辱です』と、まるで自分の身に起こった事のように悔しがる。

これは外交上、日本人が心せねばならぬ重要ポイントである。私の耳と指を守ってくれた黄色いマフラーの顛末は次号に譲るとして、この章は次の言葉で結びたい。

70年程度しか経っていない話は、決して忘れてはもらえない。それが、残念ながら現時点でのグローバル・スタンダードなのだ。

長井 一俊

Kazutoshi Nagai

PROFILE
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。

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