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COLUMN コラム

世界最北の日本レストラン フィンランドで苦闘したあるビジネスマンの物語

2015.10.26

【世界最北の日本レストラン―フィンランドで苦闘した あるビジネスマンの物語(60)】映画学

長井 一俊

ヘルシンキの老舗映画館マキシム

ヘルシンキの老舗映画館マキシム

日本の雨はお洒落である。五月雨、梅雨、驟雨、そして晩秋に降る雨は山茶花雨と呼ばれ、四季折々に趣のある冠を被せられている。農耕民族であった日本人にとって、雨は良くも悪しくも大事であり、その名はカレンダーの役目も果たしていたのであろう。欧米の雨は、雨でしかない。

もっとも、欧米の方が繊細な例も稀にある。日本のスーパーで、客は目視により欲しい牛肉のパックを簡単に買える。欧米のほとんどのスーパーでは、牛肉はカウンター販売されている。牛の身体は15部位に分かれていて、肉名もサーロイン、ランプ、フィレ…などの名称が付けられている。知識が無いと二の足を踏むことになる。大事に関しては、何処もそれなりにうるさいのだ。

さて、10月も半ばを過ぎると、ポリの街は紅葉から落葉の時期に移り、雨も霙(ミゾレ)に変わる。サラリーマンは、昼食は社内食堂で済ませ、仕事が終われば家路を急ぐ。当然、店への客足はめっきり減ってしまう。特に、ココが去って以来、彼女のファンだった若者たちの足が遠のいてしまった。その分、皮肉にもココが居なくても、店の運営に大きな支障は来たさなかった。ココはその事を知っていて、退社時期を選んでくれたようにさえ思えた。

このままではいけない。北欧では寿司は夏向きの料理と思われている。秋冬を乗り切るための新メニューを早急に考えねばならない。街の中では、熱源として電気しか使えないため、鍋物や焼鳥等は対象外である。試しに私は、小さめのスープ皿に豚汁を入れて無償サービスしてみた。すると、「有償で良いから大椀で豚汁が欲しい」と言う客が多く出た。次に、カツ丼、天丼、親子丼等をお茶碗に小さく盛って出したところ、評判が良かった。しかし問題は、大椀もドンブリも北欧ではなかなか入手できないことだ。そこで、一時帰国して、東京の合羽橋での仕入が頭をよぎった。

日本に帰りたい理由はもう一つあった。以前から「ペットの犬の毛と羊毛を混紡して、毛糸の一オンス玉を作り、それを使って靴下や手袋に編んで、個性豊かなプレゼントにする、というフィンランド独特のビジネスを日本市場に打診してみたい」と思っていた。

その頃、三十後半と見える見栄えの良い男性客が足繁く来店していた。彼が突然私に『私の名はペトリ。ポリ職業大学で映画学を教えています。撮影の許可を頂けないでしょうか?』と言う。私は『ココはもう居ませんよ。東洋人で残っているのは、私と裏方のチャイだけです。あまり絵にはなりませんよ』と答えた。彼は『ココが居ないのは残念ですが、それでも良いのです。お客様にはご迷惑が掛からないように、開店前と閉店後に撮影させて下さい』と言う。彼の意図がよく判らなかったが、反対する別段の理由も無かったので、取り敢えず許可することにした。以後毎週一回、ペトリはカメラマンを連れて店に来るようになった。そして、私の一挙手一投足を撮影し始めたのだ。『完成には2年程かかるでしょう』と言う。

映画学(Cinema Study)という言葉を聞くのは始めてだったので、「最近できた薄っぺらな学問に違いない」と私は思った。映画は好きだったが、敢えて彼に論戦を挑んだ。『私は子供の頃から本が好きでした。読んだ本が映画化されると、必ずその映画を見に行きました。ところが、本でイメージしたのとは全く違う世界が映し出されて、いつもガッカリしました。やはり映画は本には勝てませんね』

するとペトリは、『優れた読者は、本を深く深く掘り下げていきます。一方、映画は原作を元に、脚本家、監督、俳優、大・小道具、カメラマン、コンピューター技師達が上へ上へと積みあげていくのです。視聴者の貴方と、映画に携わった方々は、それぞれ違う個性と、違った過去をもっています。ですから、完成した映画と貴方のイメージが違うのは当然です。監督と主演俳優の間ですら、イメージを統一するのに苦労しています』

なるほど。ポーランドの著名な監督の下で実践を積み、大学で週18回も講座を持つ男だけの事はある。私は彼を見直した。

アカデミー(=学術)賞は1928年に始まったというから、映画自体はかれこれ一世紀の歴史をもつ。その枕となった舞台演劇は、紀元前から続いている。映画学を軽薄な学問と思った私こそが無知であった。

アカデミー賞は、受賞者に渡される銀の像を「オスカー」と呼ぶところから、オスカー賞とも呼ばれる。オスカーの語源に関しては多くの説があり真相は今もって定かではない。このような時、私はいつも「真理は単純である」(哲学者ヘーゲルの言葉)を想い出し、一番やさしい説を自説としている。

それは、1935年に行われた第8回目の受賞式で、女優賞(現在の主演女優賞)を授与されたベティ・ディヴィスが、客席で見守っている(当時の)夫・オスカー・ネルソンにむかって、『オスカー、賞を取ったわ』と叫んだのが始まりだ、という説である。彼女は前年「痴人の愛」で賞を取るはずであったが、どういう訳か落選してしまい、この年の授賞式では彼女に多くの同情と関心が集まっていた経緯が、この説を支えている。

ある晩ペトリから『今、多くの映画館で上映されている、ラスト・サムライを是非見て下さい』と言われた。いまさらハリウッドが作った侍映画などを見る気にはなれなかったが、所用でヘルシンキに行った時、由緒ある映画館「マキシム」の前を通りかかった。日本と同様に北欧でも、映画館はショッピング・モールや多目的ビルの中に入ってしまい、独立館は珍しくなった。上映中の映画はラスト・サムライで、ポリに帰る次の便までの時間つぶしに丁度良かった。

ベルリンの壁が崩壊するまで、フィンランドには日本映画はあまり入ってきていなかったので、多くの人達はこの映画から、サムライの生き様と滅びの潔さに感動したようだ。私は店で、いつも作務衣を着、従業員にはハッピを着せていた。この風景が、ペトリに撮影の動機をもたらしたのであろう。

11月の初旬にテレビで、北朝鮮の大統領・金正日が体調を崩した、というニュースが報じられた。隣国のスウェーデンが永世中立国の為、北朝鮮と国交があり、確かな情報が迅速に北欧諸国に伝えられるのだ。そのニュースの中で、元気だった頃の金正日が映し出された。彼は自慢げに『私は映画が大好きで、1万巻収集しました』と話した。私はテレビに向かって『キミが集めたのでは無いだろう。国家予算を使って、役人に集めさせたのでしょう』と思わず言った。

私の家はケーブルテレビだったので、時間さえあったなら、豊富な映画番組が視聴出来た。ハリウッド映画が多かったが、次いで隣国のスウェーデン映画も多く流されていた。映画界はサイレントの創世記からトーキーへの普及期に移行する時、第二次大戦を迎えてしまった。多くの国々が疲弊する中、繁栄を続けられたのはアメリカと中立国のスウェーデンであり、この情勢は映画の歴史に色濃く繁栄された。ハリウッドが中心となり、監督ではジョン・フォード、ウイリアム・ワイラー、女優ではテーラー、モンロー、ヘップバーン等が活躍したが、スウェーデンも巨匠イングリット・ベルイマン監督を輩出し、女優ではグレタ・ガルボー、イングリット・バーグマン、アニタ・エクバーグ等が世の男性を魅了した。

そういえば、私の父は大の映画ファンだった。明治に生まれ、大正、昭和、平成と映画を楽しんだ。子供の頃、そんな父に私は『女優さんでは誰がいいの?』と聞いたことがあった。父は、『(マレーナ)デートリッヒの前にデートリッヒ無く、デートリッヒの後にデートリッヒ無し。彼女は右顔で微笑みながら、左目で涙をこぼせる女優だ。だからこそ、ヒットラーにしつこく言いよられても、肘鉄を喰わせて、米国に逃れることが出来た』と説明してくれた。子供心にも「立派な女性がいたものだ」と感心させられた。(私の人生が難しいものになってしまったのも、以後、気丈な女性ばかりに魅せられてしまった結果、かもしれない)

私は映画を録画して、それを普及し始めたブルーレイ・ディスク(BRD)に落とせば、いつの日か金正日の1万巻を超す事が出来るだろう、と考えた。早速、電機屋に行ってブルーレイ・プレイヤーとBRDを購入しようとした。しかし、どちらも予想以上に高かった。BRDは1枚、1万円近くした。1枚に2巻のハイヴィジョン映画を収録したら、1万本を収録するには5千万円かかってしまう。諦めようかと思っている私に、電機屋のお兄さんが『ソニーの製品ですから、日本で買えばもっと安く手に入るでしょう』と言った。日本に一時帰国する理由が3つ出来た。

そしてなによりも、日本に帰れば久々に、防腐剤の入らない美味しい日本酒が、思う存分飲める。私の五臓六腑は早くも成田に向かって飛び発っていた。

長井 一俊

Kazutoshi Nagai

PROFILE
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。

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