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COLUMN コラム

世界最北の日本レストラン フィンランドで苦闘したあるビジネスマンの物語

2016.01.25

【世界最北の日本レストラン―フィンランドで苦闘した あるビジネスマンの物語(63)】殺し文句

長井 一俊

ポリ、元日を迎える花火

ポリ、元日を迎える花火

マレーシアで起きた大津波の惨事後、しばらく遠慮していた大晦日の花火は、ブランクを取り戻すかのように、コケマキ河畔の家々から打ち上げられて、ポリの夜空を美しく飾った。

花火を見たあと私は、恒例のロシアンクラブでの年越しパーティーに出席した。

スピーチ好きなロシア人のパーティーでは出席者は必ず何かを話さねばならない。スピーカー達は日本の連歌師のように、前任者の話題を上手に受けて、話を盛り上げて行く。最初のご夫人のスピーチ『父は娘の私に向かって、口癖のように“男は顔で選ぶな。金持ちか、力持ちを選べ”と言いました』を聞いた私は、日本にも全く同じ事を詠んだ川柳「色男 金と力は 無かりけり」を思い出して、思わず吹き出してしまった。

オーランド島旗

オーランド島旗

次に若い女性が『私の父はロシア人ですが、母はスウェーデン人です。その母から、伴侶は“退屈か?退屈でないか?”で選びなさいと、教わりました』

次のロシアの中年のご夫人は『ここ北欧ではいくら稼いでも、ほとんどを税金に取られますから、金持ちより、面白い人を伴侶にした方がよいのでしょう。でも、くたびれた亭主よりハンサムな若者や口説き上手な中年男の方が、退屈しないに決まっています。だから、北欧人の離婚率が高いのだと思います』と反論した。

続くスピーカー達も、若者を口説いた話、中年に口説かれた経験談を次々に披露した。私の番になるまでに、これに沿った面白い話を見つけねばならない。都々逸や川柳、ハリウッド映画やハイネの詩は口説き文句の宝庫なのだが、あせってしまうと適当なものが思い出せない。どうやら読書や映画から得た知識は、実体験や人から直接に聞いた話のようには、記憶の溝に深くは刻まれないようだ。

ネットや携帯、そして合コンなど無かった時代は、稀に訪れる異性との交際のチャンスを大事にしなければならなかった。江戸や明治の頃は、相手が答えに窮するようなストレートな表現は御法度で、「月がとても美しい」と言って、「私は貴方が好きだ」の代わりとした。

私の青春時代は、もっと具体的で、かつ意表を突く言葉が評価された。極め付きの口説き文句を、日本では「殺し文句」という。英語のMACKに近い。

私のスピーチの番になって思い出した殺し文句は、男女間ではなくて、私が顧客に対して使ったものだった。

あるクライアントの社長から大変好かれていたのだが、どういう訳か窓口役の総務部長から嫌われて、私の企画書に対して、ことごとくクレームをつけられた。ある日、部長は珍しく上機嫌で、私の企画書にも、“今回は良く出来ているじゃないか”と言った。しめた!私はいつ使おうかと用意していた殺し文句、“貴方に褒められたくて”を言ってみた。以後、彼は私の企画書にクレームを付けなくなったばかりか、食事にも誘ってくれるようになった。(この殺し文句は、高倉健が母親から、“立派な俳優になったわね”と褒められた時に最初に使われた、とされている)

司会者から『それは良い言葉ですね、私もいつか使ってみましょう。でも私は、日本の男性が女性を口説く時の殺し文句を聞きたいのです』と言われてしまった。

とっさに思い出したのは。友達の手柄話だった。『古い友人に詩人がいます。昔、詩人はルンペン(ホームレス)の同意語でありましたが、どういう訳かその彼に美しい娘が嫁いできたのです。私は彼に、“無一文の君に、どうしてあんな美人が来たんだ?”と問うてみました。彼は“何度もふられましたよ。でもある日、多摩川土手のベンチで、君のマツゲを春風が渡っているよ!と言いました。するとその後、全てが上手く運びましてね”と話してくれました』

すると、司会者は『友人の美しい殺し文句は判りました。あなたご自身は、どんな殺し文句を使った事がありますか?』とさらに攻められて、私は大昔の恥ずかしい話を披露せざるを得なくなった。

『アメリカの大学に留学中、キャンパス一のマドンナと呼ばれた娘と、校内の食堂で隣り合わせました。この機会を逃してはいけない。しかし使い古された殺し文句は聞き飽きただろう。そこで1970年代の初頭に千家和也が発表した“美し過ぎて、君が怖い”という詩(後に、野口五郎のヒット曲になる)を思い出して、彼女にぶつけてみました。すると、日頃もの静かな彼女が、“そんなすごいMACKは初めて!でもここは、ランチ・タイムの学食よ!”と大声で笑い飛ばされてしまいました。そして、この話は翌日にはキャンパス中を駆け巡ってしまったのです。当時私は、父が経営する会社の米国代理店から学費の援助を受けていたので、ゆとりのある学生生活を送っていました。友人との会食はいつも私が持ちましたが、何の代償も求めなかったので、“クール・ボーイ”と呼ばれていたのです。しかしこの時以来、“プレイ・ボーイ”に変わってしまいました。殺し文句は、時と場所をわきまえねばダメだと悟りました』

この話は大いに受けたのだが、この日の注目は私のスピーチが終ってから入室してきた、ステファン君に移った。いつもはロシア人のジェシカ嬢に連れられて来るのだが、この日は頭をかきながら一人でやって来たのだ。彼は両親ともフィンランド人だが、フィンランド語が話せず、外人クラブに出入りしていた。

それには訳がある。彼が生まれたのはフィンランドとスウェーデンの中間に位置するオーランド島だった。ご多分に漏れず、長きに亘って激しい争奪戦が両国間で行われていたが、百年程前、国際連盟の副事務局長であった新渡戸稲造(前の五千円札の肖像=東京女子大の創設者の一人)が、「島の領有権をフィンランド国に」、「公用語をスウェーデン語に」する提案をした。即ち地理的にはフィンランドに、文化的にはスウェーデンに帰属することを提案したのだ。大義を勝ち得たフィンランドも、実利を得たスウェーデンも、この案をのんだ。島旗(添付写真)は両国をイメージするデザインが選ばれた。以後今日迄、平和な一大観光地として繁栄を続けている。新渡戸稲造のような大思想家が現在いたら、竹島や千島問題はとっくに解決されていたに違いない。

さて話を、ステファン君に戻すと、彼はオーランド島に生まれたが故、フィンランド人でありながら、スウェーデン語しか話せなくなってしまった。その彼が、この数日前、とんだトバッチリでタブロイド紙を賑わしてしまったのだ。

この国、最大手のアパレル会社を所有する老人が、お抱えのモデルを愛人にしていた事が発覚してしまい、記者達はそのモデルを追いかけ廻し、やっとインタビューに漕ぎ着けた。モデル嬢いわく『あの人とは、もう別れました。今のボーイフレンドはポリに住む、ステファン君です。若いのに、小さいけれど不動産会社を経営しています。でも、とってもケチで、毎日バナナ一本しかくれません。だから彼とも別れようと思っているところです』と彼の会社名と実名を言ってしまった。

この記事が出て、ステファン君はポリの男達から“ミスター・バナーナ”と呼ばれ、女性達からは“ジェシカが可哀想”と言われてしまった。

それでも、大晦日を一人で過ごすのはよほど寂しかったのか、パーティー会場にやってきたのだ。

「よくノコノコやってこられたわね」と、御夫人達は囁いていた。私は彼の勇気を称えようと、彼と握手をしながら、『バナナ1本はたいしたもんだよ。ぼくならブルーベリー1粒しかあげられない』と言ってあげた。この一言で会場の雰囲気も和らぎ、彼は元気をとりもどした。パーティーが終わろうとする頃、私は彼に『スーパー・モデルをどうやって口説いたんだ?』と聞いてみた。

彼は『僕は元カレのようには金持ちではないけれど、僕なら君を毎晩天国に連れて行ってやるよ』と、口説いたそうです。すこし野暮だがお国柄、このくらい率直の方が良いのかもしれない。私は、もう一度若くなりたい、と思った。

長井 一俊

Kazutoshi Nagai

PROFILE
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。

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