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2017.01.23
長井 一俊
冬至が過ぎて年が明けると、北欧では本格的な雪の季節を迎える。例年この頃の雪質は粉雪だが、この冬は牡丹雪の日が続いている。そういえば、先日のクリスマスの日は雪が解けてしまい、クリスマスの本場、サンタの誕生の地であるフィンランドで、ホワイト・クリスマスならぬ、ブラック・クリスマスになってしまった。地球温暖化が加速しているような気がしてならない。
正月明けの4日、ショート・ジャケットに付いた重い雪を払いながら、中年のご夫人が来店した。どこかで会った気がするが、思い出せない。注文を聞こうと彼女のテーブルに歩み寄ると、彼女は私に小さな小包を差し出した。表には「高速バス・遺失物」と印刷されていた。開けてみると、読みかけで失くしてしまった「橋本左内」の本だった。籠から逃げてしまった小鳥が、しばらくぶりに戻ってきたような感じがした。人前でなければ戻ってきた本に、頬ずりをしただろう。私服なので彼女の印象が違っていたが、2ヶ月ほど前“2号店”の誘いを受けて、タンペレの町とバスで往復した際の、帰りのバスの車掌のオバさんだった。
驚いている私に彼女は『貴方がタンペレのバス・ターミナルで降りた時、その本をバスの座席に置き忘れて行ったそうです。貴方のバスに乗車していたバスガールがそれに気付いた時は、すでに貴方は空港行きのバスに乗りこんでいたそうです。その後の彼女の調べで、貴方が使ったバスの切符はポリのターミナルで、バンク・カードによって購入されていた事が判りました。貴方の名前と銀行名が分かったので、彼女は銀行に電話して貴方の住所を聞きだそうとしたのですが、“プライバシー保護のため、教えられない”と断られたそうです。しばらくして、彼女と私はタンペレのバス・ターミナルのビュッフェで昼食を共にしました。その時、彼女はポリに住む私に、本の返却方法を相談してきたのです。たまたま私は、その銀行の支店長夫人の古い友人でしたから、彼女の自宅に電話をしてみると、貴方がこのレストランのオーナーである事を知り、今日やってきたのです』と言った。
たった一冊の本をそこまでして、所有者に戻す国民など、「世界広しといえども、他では聞いた事がない」と感動した。その数日後、日本に出張していたトウミネン教授が久々に来店した。握手を交わしながら、『日本はまだ捨てたもんじゃない。驚いた、驚いた』と私に話しかけてきた。日本に長く住み、日本通の彼が「驚いた」事とはなんであろうと興味が湧いた。
『今回の出張には家内も連れて行ったのだ。成田飛行場からバスでホテルに向かおうとしたのだが、数分前に構内で買った2枚のチケットが見当たらないんだ。運転手さんに説明したが結局はダメで、運転手さんに2枚の切符をもう一度買わされた。成田を出発して10分程した時、パトロールカーがサイレンを鳴らしながらバスを追い抜き、私達のバスを停車させた。警官がバスに乗り込んできて“このバスの切符が、次便に載せる荷物の下で見つかった・・・”と言って、バスの運転手に手渡した。運転手は私に、“申し訳ありませんでした”と言って二人分の乗車賃を返してくれたのだ。“世界広し、といえども他では聞いた事が無い”』とトウミネン教授は言った。
読みかけの本が戻って来たすぐ後だけに、トウミネン教授のバスの切符の話を聞いて、両国民の律儀さに驚かされた。そして教授は私に『君に以前から頼まれていた物がやっと出来上がった。私の留守中に生徒達が編集した物だ』といってUSBを手渡してくれた。
自宅に戻って、パソコンで再生すると、美しいオーロラのビデオと数枚の写真が映し出された。教授と生徒達が、2年間のプロジェクトを組んで撮影したものだ。私は写真が下手で、オーロラの撮影はいつも失敗していた。映しだされた写真の一枚に私の目は釘付けにされた。美しいだけではなく、空間に現れたオーロラの実像と、湖面に反射した虚像とが、見事上下対称に写っているからだ。
私のこれまでのビジネス人生では、「無い物」を求め続けて来た。無いものを見つけないことには、大企業には勝てないからだ。「無い物」を見つけるには、ビジネスに直接関係がなくとも日常から無い物を探す習慣と訓練が欠かせない。その中で見つけた一つは「上下対称」だった。世の中に左右対称は数多あれど、上下対称は動植物においても、人工物においても皆無のような気がした。
当初、例えばお豆腐は上下対称だと思ったのだが、お豆腐屋さんに聞いてみると、「水から上げると、豆腐はどうしても下膨れしてしまう」と教えられた。次は球体だった。ピンポン玉やゴルフ・ボールにはブランド名が印刷されているので面白く無い。そこで仕事のついでに芝公園にある日本ベアリング工業会を訪ねた。ボール・ベアリングこそが完全球体であると思ったからだ。しかし、技術者から、『製造中に地球の引力の影響を受けるので、ボール・ベアリングは完全な球体ではない』と教えられた。そこまで聞いて、地球上には上下対称は無い、と私なりの結論を出した。
その後も無意識のうちに、上下対称を探し続けていたようだ。厨房で、料理学校から派遣された実習生に、「料理の味と加熱時間の関係」を教えるために、砂時計を使うようになった。砂時計は調理器具と同じ視野内に置けるからだ。使っていて、砂の動きを除けば砂時計は上下対称だと気がついた。
そして、このオーロラの写真を見て、大いに考えさせられた。日本とフィンランドの関係も、どちらが上か下かは別にして、自然や社会環境は上下対称ほどに異なっている。温帯と寒冷、人口密度、地震の頻度、医療費や学費・・・。ところが、このように全く違う環境のなかで育まれた両国民性は、上下対称の真ん中を走る水平線上でピッタリと重なる。勤勉で真面目、静かで控えめ、時間厳守、優秀な読解・計算力、迅速な回復力、お節介と言われるほどの親切心・・・。
「人は環境の動物である」とか「生命の進化は環境への順応」を“真理”と考えてきた私に、“それは間違いかも知れない?”と疑問を与えてくれた一枚の写真であった。
長井 一俊
Kazutoshi Nagai