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2016.05.23
定森 幸生
有効な「人事ブランド戦略」を策定するのに必要なプロセスの2つ目は、「会社の事業戦略と人事戦略との間の整合性の確認」です。これは、本質的には企業活動を戦略的に運営するための必須条件ですから、海外の労働市場における「人事ブランド戦略」に固有の要素ではありません。しかし、海外の労働市場での自社の知名度や認知度が日本市場での実情と異なる現実を考えると、海外拠点の「人事ブランド戦略」おいては、「事業戦略と人事戦略との間の整合性」を検証し、企業が求める必須人材(critical talent)の知識、能力、適性、経験などの資格要件を、求人活動や社内の人材開発・人材登用の実務を通じて、ホスト国のステークホルダーに理解してもらう努力は大変重要なことです。
このプロセスで最も大切なことは、会社が確保しようとする人材(候補者)の資格要件を、人事部署だけでなく社内関係者全員が、「正確に」共有していることです。「優秀な人材」という漠然とした人材の特性だけを頼りに採用活動を行っても、本当に会社が必要とする適材を確保することはできません。それどころか、仕事とは殆ど関係のない高学歴や個人的な上昇志向の高さを、「向上心」や「やる気」の表れと読み違えて採用してしまうと、会社と社員の仕事に対する期待値に大きなミスマッチが生じて、折角時間とコストをかけて採用した社員に僅かの間に辞められたり、モチベーションも業績も上がらないのに、(ホスト国の法的制約などで)解雇もままならない状況に追い込まれることさえあります。
これでは、労働市場に対して会社の人事戦略に関するポジティブな面を印象づけ、採用にかかる労力や金銭的コストを抑制しながら希少性の高い必須人材を確保するという「人事ブランド戦略」の本来の趣旨とは真逆の結果を招くことになります。また、一般に、社員の判断が正しいか否かに関わらず、会社に失望して退社した人や、不満を抱えたまま在籍している社員の多くは、SNSなどを通じて会社に対するネガティヴなコメントを社外に発信する傾向がありますから、企業経営の「リスク管理」の一環としても十分な注意が必要です。「会社の事業戦略と人事戦略との間の整合性の確認」という「人事ブランド戦略」の策定プロセスにおいて、このようなリスクを回避する有効な手法を下記のチェックリストに纏めておきます。
① 海外拠点各部署の中長期事業戦略の実行に必要な人材の数と属性を特定し、個々の人材について、第12回から第14回で解説した「職務記述書」を構成する専門知識、能力、適性、経験などの必須の職務要件を、実務現場の関係者の英知を結集して過不足なく定義する。その結果を関係部署と人事部署との間で共有し、社内外に発信する会社のメッセージの一貫性を担保する。
② 確保すべき人材が多岐に亘る場合、また、確保すべき優先度に違いがある場合、在籍社員の中から適任者を直ちに登用すること、ある程度時間がかかっても在籍者を育成して活用すること、あるいは早急に適任人材を新規採用することなどの現実性と戦略的な意義を判断する。
③ 育成候補となる在籍社員(内部労働市場の候補者)と新規採用すべき外部労働市場の候補者の双方について、会社としてアクションを取るべき対象者グループを優先度に応じて分類し、「人事ブランド戦略」に携わる限られた社内リソースの傾斜配分の具体策を決断する。
④ 社内外のそれぞれの対象者グループの人たちが、どのようなキャリアを志向し自分たちの職業人としての将来展望を意識しているのかを的確に把握し、彼らにとって自社の事業戦略の担い手になることが、プロとして魅力的でありキャリア形成上の価値も高いことを確信させるコミュニケーション技術の向上を図る。
⑤ 外部労働市場の候補者(求職者)について、自社でキャリア形成する意思が現時点でどの程度固まっているのか、彼らの決断に必要な追加情報は何か、求職者に対する訴求力をさらに高めるうえで、自社の職場環境や人事諸制度などを改善する余地はないかなどを検証し、自社がキャリア形成の場として魅力的であることを信憑性の高い情報として提供する。
⑥ 毎年の事業計画の中で、抽象的な業績目標だけでなく業績を測定・評価する主な尺度(key performance indicator:KPI)や業績達成をサポートする社内リソースの利用可能性などを、社内外の労働市場の対象者に対する具体的で客観性の高いコミュニケーションの重要なメッセージと位置付ける。
「会社の事業戦略と人事戦略との間の整合性の確認」という命題は、社内の役職員をコミュニケーションの対象として語られることが多いテーマです。このテーマを、「人事ブランド戦略」の目的で外部労働市場の人(社外のステークホルダー)とのコミュニケーションのメッセージとする場合は、「不特定多数」を想定した画一的な内容ではなく、採用選考対象グループとなる労働市場セグメントと職種・職責を特定して、自社が想定する「特定多数」のグループに的確に受け止められる内容にすることが大切です。第10回で採り上げた「人事制度の基本原理は特定個人と特定多数」というコンセプトは、「人事ブランド戦略」にも共通するものなのです。
定森 幸生
Yukio Sadamori