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2016.08.15
定森 幸生
採用選考への応募者に対して、個々の職責を果たすために必要な知識・スキル・能力(knowledge, skills and abilitiesの頭文字をとって一般に“KSA”と呼ばれます)や学歴に関して、むやみに高い要件を設定することは、前回説明した通り、優秀な人材の入社後のモチベーション低下を招くリスクがありますが、それに止まらず、経営にとってさらに深刻な雇用差別禁止に関する法的(訴訟)リスクと背中合わせであることも認識する必要があります。
一般に、採用実務における雇用差別禁止に関する法的留意点とは、個々の職務要件とは直接関係のない人的属性(人種的・民族的背景=racial or ethnic background、性的志向=sexual orientation、皮膚の色=color of skin、年令=age、宗教的信条=religious belief、障碍=disability など)を理由に、個人の努力では克服できない特性に該当する応募者を一律に排除(直接差別)することになる、不公正な選考基準を設定しないということです。最近は日本での採用選考においても、この点については多くの企業が神経を使うようになっていますので、海外拠点での採用実務においても特に違和感はないでしょう。
海外拠点での採用選考においては、直接差別と見なされるような要件を排除する配慮に加えて、応募資格として開示する“KSA”が、 本当に“必須”の職務資格(bona fide occupational qualificationsの頭文字をとって一般に“BFOQ”と呼ばれます)であるか否かを、個々の職務内容に照らして検証することが大切です。“bona fide”は、法律文書でよく使われるラテン語で、「正真正銘の、誠実な、嘘偽りのない」という意味です。採用選考の場面で言えば、「特定の属性をもつグループの応募者にとって必要以上にハードルを高くする悪意がないこと」という意味になります。
端的な例を挙げれば、高卒程度で全く問題ないオフィス事務の仕事の応募資格として、最低でも大学卒(例えば、 経済学士=B.A.in economics)を要求することは、大学進学率が低い国の労働市場において多くの有資格の高卒候補者を不当に排除することになります。それは、実際問題として、大学進学が可能な富裕層の子弟(相対的に白人が多い)を優先して採用する不公正な意図があると受け止められるリスクがあります。このようなアンフェアな選考基準を設定することは、ホスト国の労働市場や社会全体の企業の好感度を損なうだけでなく、例えばアメリカやオーストラリアのように、雇用差別に厳しい制裁を科す国においては、訴訟を起こされるリスクが大きくなります。
特に、多人種・多民族で構成されるアメリカについて言えば、高額な大学教育を受けられない「低所得階層」の大半が「黒人やマイノリティ」である現実を考えると、不必要な高学歴を求めることは、表面的には中立な選考基準や人事規程のように見えますが、結果として「人種・皮膚の色」を差別し不当に不利益を与える雇用慣行(discriminatory employment practice)であるとのに申し立てによって雇用差別訴訟を提起される可能性がかなり大きくなります。また、学歴そのものを応募資格に含めない場合でも、現実的に高学歴者でないと簡単には経験することが難しい職務上の経験や、その職歴を通じて習得することが期待される高度な業務知識や技能を、定型的な事務の仕事の応募条件に含めることは、人種・皮膚の色を理由とした雇用差別訴訟のリスクを高めることになります。このような差別は、上述の「直接差別」に対して「間接差別」と呼ばれます。
一方、年令に関する応募要件については、現在でも「定年制」が維持されている国がある一方で、これまで定年制が社会に受け入れられていた国の中には、ヨーロッパ諸国のように“成熟した社会”を中心に、定年制を廃止して高齢者の雇用機会を増やす必要があるという社会的要請を受けて、法定退職年齢(default retirement age)を廃止する法律を制定した国もあります。
最近では、2011年4月から定年制を段階的に廃止(phase out)することを決めた英国の例があります。英国の定年は、長年にわたり男性65歳、女性60歳でしたが、①国全体の人口が高齢化するにつれて相対的な生産年齢人口が減少したこと、②高齢者の退職後の生活維持をサポートするための年金制度の持続的な運用が難しくなることが見込まれること、③適度に労働を継続することにより高齢者が健康を維持し、社会への貢献を実感して高齢者の社会的使命感を高める効果が期待できることなどを理由に、定年制は年齢による雇用差別として禁止する法律を制定しました。
これに先立つ2000年の雇用機会均等に関するEU評議会指令(council directive)に基づいて、欧州主要各国は相次いで国内法によって年齢差別を含めた雇用差別を禁止する法整備を行っています。“雇用差別禁止法制の先進国”であるアメリカでは、早々と1964年の「公民権法(Civil Rights Act)」や1967年の「雇用における年齢差別禁止法(Age Discrimination in Employment Act)」を施行して差別禁止の法体系を整備し、その後、1990年の「障碍者差別禁止法(Americans with Disabilities Act)」を追加して雇用差別禁止をさらに厳しく規制しています。カナダやオーストラリアでも、1970代から1990年代にかけて、同様の雇用差別禁止法が整備されています。
各国の雇用差別禁止法の本質的な趣旨は共通していますが、各国の歴史的背景や現実の政治的・社内的優先事項の違いから、具体的な運用や保護対象となる人的属性(protected class)は一様ではありません。年齢差別に限ってみても、高齢者に対する社会保障政策上の必要性から退職年齢を設けないだけでなく、大学卒の若年層の失業率が高い国では、若者に対する年齢差別の禁止(採用年齢を高めに設定するため高学歴を要求したり、管理職登用に最低年齢を設定することも禁止しています。したがって、海外拠点での採用実務においては、皮相的な異文化論に惑わされてホスト国を理解したつもりにならないで、各ホスト国固有の雇用・労働関連法の詳細と、その社会的要請の背景事情に精通しておくことが、極めて重要な経営命題なのです。
定森 幸生
Yukio Sadamori