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2015.08.17
齋藤 志緒理
今号と次号では、タイ国で1902年から10年間活動した日本人養蚕顧問の足跡をたどり、日本人がタイの養蚕事業改良に、どのように関わってきたのかを紹介します。
(参考文献:吉川利治「暹羅国蚕業顧問技師――明治期の東南アジア技術援助」『東南アジア研究18巻3号, 1980年12月』)
日本人最初のタイ政府養蚕顧問は外山亀太郎(写真上)でした。外山は養蚕が盛んだった神奈川県愛甲郡(現在の厚木市)出身で、メンデルの法則をカイコで証明した遺伝学の研究者です。東京帝国大学農科大学助教授となった1902年にタイに招聘されました。
外山は、まず「農事試験場」(実質的には「養蚕試験場」)と「蚕業局」を整備し、人材として技師5人(横田兵之助、三島敏行、高野与祖次郎、細谷善助、中村辰治)と工女2人(国分セイ、平野キク)を呼び寄せました。
このほかに現地バンコクでタイ語が話せる日本人4人を雇い入れました。その中の一人、永島安太郎(写真下)は外山と同郷で、愛甲郡小鮎村の村長も務めた人物です。彼らは当初は通訳としての雇用でしたが、次第に技師を補佐し、助手の役割を果たすようになりました。
技師らの活動の拠点はバンコクのパトゥムワンとタイ国養蚕業の中心地である東北部のナコンラーチャシーマー県(通称:コーラート)、ブリーラム県に置かれました。
日本人技師の中では、風土病で体調を崩す者が相次ぎました。外山自身も病を得て、3年の任期が終わると1905年に帰国。後任には田原休之丞が派遣されました(1907年帰国)。唯一、横田兵之助が最初から最後まで10年間タイの地で養蚕技師を務め上げました。
現地採用の日本人は、給料は日本から派遣された日本人の半分で、無契約での雇用のため、年1ヵ月の有給休暇ももらえなかったといいます。熱帯の厳しい暑さの中で過労が響いたのか、4人のうち永島を含む2人が1906~07年の間に相次いで病死しています。
外山は、「雑種強勢」の現象(=遠縁の品種同士を掛け合わせると、その子の一代だけは成長速度、大きさ、生存率、生産性が両親の系統よりも勝れている)を養蚕に応用。より短い飼育日数で、より多くの繭を生産し、生糸の生産効率を上げられるよう研究を行いました。1903年初めからタイ種と日本種の交配実験を重ね、外山の帰国後も田原が引き継いで、蚕種の品種改良に成功します。
さらに外山らは、養蚕技術向上のための学校を1903年に王宮内に開設し、自らも教壇に立ちました。受講生十数名はみな宮中で暮らす女性たちで、教科目は、桑樹栽培、蚕の飼育法、繭の保存、操糸法などでした。
この学校は翌年廃止となりますが、1905年には蚕業局の事業拡大のため、王宮外に「養蚕学校」が開設されました。生徒は夜明けから夜9時まで蚕の飼育にあたり、さらに教科の授業を受けるという厳しい時間割でした。
教科は養蚕学や農学に加え、代数、幾何、三角法、立体測定法、地理、英語、ドイツ語でした。外国語の学習は、卒業後の留学を想定してのもので、翌1906年にはさらに生物学、化学が科目に加えられ、学校名も「農学校」と改称されました。
1908年には蚕業局の給費学生7人が卒業。東北タイの各蚕業試験場の支所長、副支所長となり、契約満了となった日本人技師の業務を引き継ぎました。その後も養蚕学校・農学校の卒業生は(ドイツやアメリカへ留学する者も含め)農務省の幹部になっていきました。
バンコクの蚕業局は1908年に農務省の庁舎に統合され、農学校も地図局の学校に合併されました。蚕業局があった土地は翌1909年に大蔵省に売却され、バンコクの蚕業局は事実上消滅。コーラート、ブリーラムがその後の主力となりました。
農学校はさらに、運河局の学校とも合併し、「農務省学校」となりましたが、この農務省学校こそが、今日の総合大学「カセートサート大学」の前身です。
(次号につづく)
齋藤 志緒理
Shiori Saito