文字サイズ
2015.10.13
齋藤 志緒理
前々号、前号では、1902年に日本からタイ国に渡った養蚕技師らの10年間の活動を紹介しました。その後、タイにおける養蚕、生糸生産は家内工業から脱皮せぬまま、さらに年月を重ねることとなりましたが、状況を打破し、現在の絹産業の礎を築いたのは、アメリカ人実業家ジム・トンプソンでした。
ジム・トンプソン(James Harrison Wilson Thompson)は1906年、米国デラウェア州に6人きょうだいの5人目として生まれました。実家は州の社交界では名の通った家柄でした。トンプソンはペンシルバニア大学で建築を学び、ニューヨーク市で建築設計家として10年ほど働きます。住宅以外によく手掛けたのは造園やインテリア装飾で、後年彼のシルク業を支えた色彩のセンスが既にこのころから発揮されていたようです。
人生の転機が訪れたのは34歳の時。欧州で第二次世界大戦が始まると、早晩米国も参戦するとみたトンプソンは、それまでの職業を辞め、デラウェア州軍に二等兵として志願したのです。入隊後はフロリダの士官候補生学校を経て少尉となり、1942年に開設されたばかりの米国諜報機関OSS(=戦略作戦局:CIAの前身)に転属します。OSSのメンバーとして、トンプソンは日本と同盟を結んでいたタイ国(注)に潜入する任務を帯びます。1945年8月後半にタイ東北部に飛び、そこからパラシュート降下する予定でしたが、直前に日本の降伏が伝えられたため降下はせず、「元敵軍の動向を探る」というミッションを受けて、バンコクに降り立ちます。
※注)第二次世界大戦中のタイ国は表向きは日本の同盟国でしたが、水面下で「自由タイ運動」を推進し、連合国側とも気脈を通じていました。
間もなくトンプソンはOSS支局長の地位につき、臨時の米領事館を開設します。当時のタイ国には、2人の政治的リーダーがいました。ピブン・ソンクラームとプリディ・パノムヨンです。太平洋戦争開戦時、日本と同盟を結んだピブン首相は戦犯となり投獄されるも、やがて釈放されて再起を図ります。一方、「自由タイ運動」のリーダーだったプリディは戦後、1946年3月に首相となります。
しかし、プリディ首相は、同年6月に起きたラーマ8世王(現ラーマ9世王の兄)の王宮内での突然死に関して嫌疑をかけられて失脚し、翌1947年に国外へ脱出しました。(以後、シンガポールで2年、中国で21年、フランスで13年間亡命生活を送り、1983年にパリで亡くなりました。)トンプソンはOSS支局長時代、プリディに会い、その知性と個人的魅力に強い印象を受けたといいます。
1946年末、OSSを除隊したトンプソンはタイ国で事業を始める決心をします。最初に取り組んだのは、米空軍の兵舎として接収されていたオリエンタルホテルの再建でした。これは6人の合名会社による事業でしたが、その中心人物だったフランス人女性との意見の衝突などもあり、トンプソンはほどなくして事業から撤退。これがシルク産業へと舵を切るきっかけになります。
トンプソンは除隊後も米大使館の非公式な政治顧問を務めており、インドシナ半島の情勢、特にフランスからの独立を画策するベトナムとラオスの民族主義運動に関心を寄せていました。そうした文脈の中で、ラオス人の友人と共にタイ・ラオスの国境地帯を度々訪れ、(ラオスとは、民族、文化、言語など様々な面で地続きの)東北タイに親しむ機会を持ちます。タイシルクが好きで、バンコク着任以来、気に入った柄の生地を収集していたトンプソンでしたが、東北への旅を通じて、この地が伝統的に生糸生産の中心地であった事実や、外国産の廉価な絹織物の登場によって、タイ国の絹産業が危機にひんしている現実を意識したのではないか――とみられています。
トンプソンが絹の分野で本格的な一歩を踏み出したのは41歳の時です。彼はまず、バンコクの「バンクルア地域」に集住していた織工らに働きかけ、多様なパターンの織地を作ってもらい、アメリカで営業活動を行いました。米ファッション誌『ヴォーグ』で取り上げられたことなどで弾みをつけ、1948年には「株式会社 タイ・シルク商会」を設立します。
しかし、ピブン政権下の1949年2月、海軍主導で起こったプリディ派のクーデターが鎮圧されると、政治活動に関わっていたトンプソンの知人が濡れ衣と思われる容疑で投獄、処刑されたり、亡命を余儀なくされました。彼の右腕となって東北タイの生糸の生産者との連絡役を務めていたラオス人も身の危険を感じて帰国。こうした政治状況に失望し、一時はアメリカへ戻ることも考えたトンプソンでしたが、タイに留まる決意を固め、一層シルク事業にまい進していきました。
トンプソンはその優れた色彩感覚と、絹に対する情熱をもって事業に臨みました。彼の功績は、大きく分けて(1)タイシルクの品質改革(特にデザイン革新)と(2)タイシルクの市場拡大――の二つの面に集約できます。具体的には・・・
(1)としては、退色しやすい天然染料を化学染料に変え、より華やかな色味を出すようになったこと。そして、プリント模様のシルクを開発したことが挙げられます。
(2)は、米国人という出自や彼の人脈の広さに助けられた面も大きいのですが、ニューヨークで絹製品のショーを開いたり、米国に自社製品を扱う卸代理店を作るなどして、拡販を進めたことです。
デザイン性に優れたトンプソンのシルクは世界に通用する製品へと育っていき、有名なブロードウェイ・ミュージカル「王様と私」の衣装を受注したことで、海外での名声も高まりました。
1967年3月26日の昼下がり、5日前に61歳の誕生日を迎えたばかりのトンプソンは、避暑先のマレーシア、キャメロン高原で忽然と姿を消します。周囲をジャングルに覆われた丘陵地帯にある知人の別荘に滞在中、同行者らとピクニックに出かけて戻り、各人が午睡をとるために個室に戻っている間のことでした。
トンプソンが別荘付近を一人で散策することは珍しくなく、しかも、この日は煙草とライター、持病の発作用の薬が自室に残されていたため、みな彼はじきに帰ってくるものと楽観的に考えました。しかし、夜が更けても彼は戻りませんでした。翌日には商談のためシンガポールに向かう予定で、黙って失踪する理由は見当たりません。ジャングルに分け入って遭難したのではないか?と、その後しばらくの間、大々的に捜索活動が行われましたが、痕跡らしい痕跡はなく、ついにトンプソンは発見されませんでした。
失踪の年、1967年はラオス内戦やベトナム戦争のさなかで、反共政策を展開する米国がインドシナ半島で活発に諜報活動を行っていた時期です。トンプソンは、かつて自分が所属していたOSSの後身―CIAと繋がりがあったのではという説もあり、他方、米国の諜報活動とは関係のない何らかの政治的理由によって、姿をくらましたか、或いは拉致されたのではという憶測も飛び交いました。
確たる手掛かりがないまま、失踪後7年を経た1974年、彼の死が法的に宣告されました。遭難事故だったのか、それとも連れ去られたのか――真相は今も闇の中ですが、彼が残した「ジム・トンプソン」ブランドは、その後も発展を続け、今やタイシルクの代名詞ともなっています。
トンプソンの足跡と失踪については、『ジム・トンプソン 失踪の謎』(ウィリアム・ウォレン著/吉川勇一訳、Archipelago Press)に詳しく、松本清張が失踪事件を題材に『熱い絹』という長編ミステリー小説を書いています。
齋藤 志緒理
Shiori Saito