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2016.01.12
齋藤 志緒理
2015年10月11日、静岡県静岡市内の浅間通り商店街で「第30回 日・タイ友好 長政まつり」が開かれました。
同商店街の公式ブログ「夢門前ニュース」によれば、このまつりは17世紀初頭、朱印船に乗ってアユタヤに渡った山田長政が浅間通りの出身であることにちなみ、1986年から開催されています。当初は静岡市の若者有志による「長政まつり」でしたが、その後商店街の主催となり、山田長政を記念顕彰するのみならず、日タイの親睦を推進する「日・タイ友好」事業として、タイ料理やタイ舞踊なども紹介するようになりました。2005年からは在京タイ王国大使館やタイ国政府観光庁の支援も受けています。
まつり当日の商店街は、屋台で様々なタイ料理を味わう人、特設舞台の前でタイ舞踊や伝統音楽演奏を鑑賞する人などで賑わいました。周辺エリアではタイの3輪タクシー「トゥクトゥク」に試乗体験できる催しもありました。
浅間通りには長政の生家跡があり、通りの先には、昔から地元の人々に「おせんげんさま」と親しまれてきた静岡浅間神社があります。
アユタヤで活躍した長政は1626年に己の立身出世の諸願成就報告のため、故郷の浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納しました。(本人が帰国したわけではありません。)絵馬には
奉挂御立願 諸願成就 令満之所 当国主 今天竺暹羅国住居
寛永三丙寅歳 二月吉日 山田仁左衛門尉長政
(※「暹羅国」は当時のタイの国名「シャム」のこと)
と記され、文字の下には、異国風の軍船が描かれました。
それから約160年後の1788年、付近の町で起こった火事が神社に飛び火して、長政が奉納した絵馬は焼失してしまいます。しかし、1754年に駿府城在番の旗本、榊原長俊が絵馬を模写していたため、その絵を基に改めて絵馬が制作され、火事の翌年に奉納されました。この二代目の「戦艦図絵馬」は、榊原長俊による模写絵(※注)共々、現在も静岡浅間神社が所蔵しています。(※大正時代に静岡県内で所在が判明し、持ち主が同神社に奉納しました。)
例年「日・タイ友好 長政まつり」では、「山田長政戦艦図絵馬奉納行列」と題し、絵馬のレプリカを神輿に載せて担ぎ、商店街を練り歩くパレードも実施されています。
ところで、この山田長政という歴史上の人物――現代の日本人にはどのくらい知られているのでしょう。
筆者がビジネスパーソン向けのタイ研修に出講する際は、日タイの歴史的つながりを紹介する中で山田長政に触れるのですが、20代~30代の若手世代では「ヤマダナガマサ」という名前にピンとこない方も時折おられます。
しかし、別の機会に、ある戦中派の方に話を聞いたところ、「子どもの頃は、英雄として漫画や講談本などに大変露出度が高かった。主人公の武士が南国で活躍する様にロマンを感じる」とのコメントで、年代によって山田長政の認知度やイメージが異なっていることに気づかされました。
全国歴史教育研究協議会が編んでいる『日本史用語集』(山川出版社)には、全ての高校日本史教科書に盛り込まれている歴史用語が収蔵され、各用語には簡潔な解説と共に、その言葉が何冊の教科書に出ているかが頻度数として示されています。
1984年に刊行された版を見ると、山田長政への言及がある教科書数は(全教科書数15の内)「11」ですが、最新の『日本史用語集―A・B共用』(2014年刊)では(日本史A,B合わせた教科書数15の内)「6」でした。
これをもって単純に、日本史教育の現場で「山田長政」が教えられる機会が減った――と断ずることはできませんが、少なくとも高等学校の歴史教科書では、この30年間で「山田長政」の取り扱い頻度が減っていることがわかります。
読者各位は、山田長政について、どのような印象を抱いていらっしゃるでしょうか。
日本で山田長政のイメージが変遷してきた経緯については、その時代背景と併せて本シリーズ3回目で取り上げたいと思います。
まずは、次号で長政の足跡をたどり、当時のアユタヤの日本人町の状況にも目を向けてみましょう。
齋藤 志緒理
Shiori Saito