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2016.03.07
齋藤 志緒理
今号では、歴史的に、山田長政がどのように書かれ、あるいは教えられてきたのか――その推移を各時代の状況と併せて追ってみましょう。
土屋了子は、山田長政に関する記述を系統的に調査収集し、それらの資料から読み取ることのできる山田長政像の特徴を、日本に関しては次の5つの時期に区分して論じています。(土屋了子「山田長政のイメージと日タイ関係」『アジア太平洋討究』第5号, 2003年3月, p.97-125,早稲田大学アジア太平洋研究センター)。
(1)長政の死から開国(1854年の黒船来航の頃)まで
(2)開国から第1次世界大戦勃発まで
(3)第1次世界大戦勃発から1932年まで
(4)1932年から第2次世界大戦終結まで
(5)第2次世界大戦終結から現在まで
本稿では、同論文の考察に沿って上記の(1)~(3)の時期の、次号では(4)(5)の時期の山田長政のイメージの変遷をたどります。
なお、同論文は49冊の本(記事・脚本なども含む)と15箇所の教科書の記述を取り上げていますが、当連載では、紙面の関係で代表的なものに絞りました。その選択や解説内容については、見立てと分析を誤ることがないよう、この度、論文の著者、土屋氏による確認・監修を経ております。
長政が1630年に没して後、最初に書物に登場するのは約70年後です。智原五郎八が『暹羅国風土軍記』『暹羅国山田氏興亡記』を、天竺徳兵衛が1707年に『天竺徳兵衛物語』を記しています。この両名は自ら直接山田長政をめぐる事件に遭遇したか、アユタヤからの情報を耳にして執筆に臨んだと思われ、これより後に書かれる様々な長政伝説に材料と原型を提供しました。
1794年に出版された『山田仁左衛門渡唐録』(著者不明、柴山柳陰子の語りを書きとめた本)は、シャムを「外夷」(中華文明の及ばない非文明国)とみなし、日本をそれよりも上のものと位置付けています。また、長政についても「お国のために貢献すべく、シャムと日本の貿易促進を図った」という見地で評価し、長政が静岡浅間神社に奉納した「戦艦図絵馬」にこめた(一神社への)感謝の念を、“日本の神徳への感謝”に置き換えるなど、国粋主義的発想がみられます。
国学者・平田篤胤も1813年にその著『気吹おろし』で、国粋主義的な長政像を踏襲し、長政を「大日本魂(=日本人のみが持ったすぐれた精神)が外国に渡った際の手本」としています。
開国後、明治維新を経て、日本の教育も大幅に改革され、1872年には学制発布により義務教育制度が導入されました。第1次世界大戦勃発までの間、山田長政は歴史、国語、修身の3教科の教科書中に、長期にわたって頻繁に登場しましたが、中でも回数が多かったのが歴史教科書(初出は3教科の中で最も早く、1879年)でした。同論文では、この時期の教科書の影響力の大きさに着目し、年代毎の特徴を次のように述べています。
第1期(1879年、82年、83年)の歴史教科書では、「長政はシャムの外冦を防ぎ、国内の反乱を鎮めるなどの功績により国相に上り、リゴールの王に封ぜられた」という記述に留まっています。
第2期(1888年、93年)になると、「長政は(リゴールの王に封ぜられた上に)シャム王の王女を妻とし、シャムの国政を代行した」とのフィクションが付加されるなど、長政の力を誇張する意図がみられます。この時期は、1885年に内閣制度が設けられ、初代文部大臣の森有礼が学制改革を行った時期に重なります。教科書検定が開始され、1890年には教育勅語も発布されるなど、国家至上主義的な教育体制が固められた時代でもありました。また、ナショナリズムを基礎とした「アジア主義」(注1)や「南進論」(注2)が勃興したのもこの時期で、この2つの思想が長政像にも波及したと考えられます。
第3期(1898年、1900年)には、長政像は第1期のそれに復帰し、誇張が削ぎ落とされました。
(注1)「アジア主義」=アジアの諸民族が連帯することで、西欧列強による植民地支配からの解放を目指す考え方で、「大東亜共栄圏」構想につながっていく。
(注2)「南進論」=日本の国益のために南洋進出によって対外発展を図ろうとする理論。
長政についての最初の記述が一般書に現れるのは1875年(大鳥圭介等著『暹羅紀行』)。この著作の中で、長政が「シャム王」になったとする説が初めて登場し、1887年の森貞次郎著『山田長政暹羅偉蹟』や1992年の関口隆正著『山田長政伝』などでも「長政=シャム王」説が継承されています。
1898年には『少年世界』という当時の少年向け雑誌に、森烏城の短編小説「山田長政」が掲載されましたが、この小説で「海国男子」という、その後長政の形容に長く用いられることになる言葉が初めて使われています。日清戦争(1894-5)と日露戦争(1904-5)の狭間の時期であり、「海軍拡張の時代を反映しているのでは」と、同論文は分析しています。
この時期(開国~第1次世界大戦勃発)の一般書にみられる長政像は、同じ時期の教科書にみられる山田長政とある期間は重なり、ある期間は異なった様相を呈しているようです。一般書には、教科書に存在した第1期はなく、教科書の第2期のような誇張のある長政像が当初から描かれ、教科書の第3期と同じ頃(1898年の森烏城の頃)から、歪みの少ない長政像になったと総括しています。
この時期には、山田長政は教科書には全く登場していませんが、一般書には、日本をアジアの盟主と見る「アジア主義的シャム観」が表れています。例えば、1921年に後藤粛堂が記した「山田長政とシャムより奉納せし絵馬について(上)」では、長政を「桃太郎の権化であり、大和男子の意気を海外に輝かせた、誇るべき人物」と紹介しています。
大仏次郎は1930年から31年にかけて『少年倶楽部』に「日本人オイン」という少年少女向けの小説を連載しました(※オインは長政とシャム女性との間に生まれた男の子)。同著は、「日本人町の人たちは、我慢強く、生き生きと勤勉で、異郷にあってもこつこつと自分の生活を築いていく。シャムの人々に恩義を感じて、彼らと仲良く付き合い、隣国から軍隊が攻めてきた時には、自ら進んで武器を取り、シャム軍に加わった」とし、長政についても「できるだけ早く成功して日本へ引き揚げることだけを考えず、日本人としての良い点を残しながら、シャムの人間になりきろうとした」と記しています。
大仏は、山田長政やアユタヤの日本人町の人々の姿を通し、「理想の植民地の姿」や「海外における理想の日本人像」を描きました。その背景には、失業率が高く、海外植民が奨励され、南太平洋諸島(赤道以北)を委任統治領として実質的に支配していた、当時の日本の状況があったと考えられる――と同論文は指摘しています。
(1)~(3)を振り返ると、山田長政のイメージに起伏が見られたのは、
―江戸後期に、長政像が国粋主義的な色合いを含んで描かれたこと
―明治新政府による教育改革と「アジア主義」「南進論」の2つの思想の興隆により、教科書で長政の力が誇張される時期があったこと
―第1次世界大戦以降1930年代の初めにかけて、長政像に日本をアジアの盟主と見る価値観や、海外植民を奨励する考え方、タイ(当時はシャム)に対する“南進論的野心”が投影されたこと・・・などでした。
次号では、残る2つの時代――(4)「1932年~第2次世界大戦終結まで」と(5)「第2次世界大戦終結~現在まで」の山田長政像に光を当てます。
齋藤 志緒理
Shiori Saito