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2016.04.04
齋藤 志緒理
前号では、江戸期から1932年までの山田長政のイメージの変遷を3つの時期に分けて解説しました。今号では、引き続き、土屋了子の論文(「山田長政のイメージと日タイ関係」『アジア太平洋討究』第5号, 2003年3月, p.97-125,早稲田大学アジア太平洋研究センター)に基づき、残る2つの時代の山田長政像を追います。
1930年代に入ると、日本外交は国際協調主義から大きく舵を切り、満州事変(1931年9月)をめぐって列強と対立。国際連盟を脱退(1933年)するに至ります。日本は「植民地主義からのアジア解放」を謳い、日中戦争、太平洋戦争へと突入していくのですが、その際の基盤にあった「大東亜共栄圏」の思想は、山田長政像にも影響を与えます。
端的に言えば、山田長政は大東亜共栄圏の理想を体現した「南進の英雄」としてのイメージを与えられ、日本人の戦意高揚のために利用されました。この時期、長政について一般書、教科書、研究書など多岐にわたる分野で多数の著作が世に出ました。
山田長政は1900年の歴史・国語の小学生向け教科書に登場したのを最後に約40年間、代表的な小学校の教科書から姿を消していましたが、太平洋戦争が勃発した1941に再登場しました。当時の教師用の分冊には「海外雄飛の精神を鼓舞し、大東亜共栄圏の建設に邁進する心構えを養う」と記されてありました。
この時期の教科書は、長政がアユタヤの宮廷で重用されたことについて、個人としての立身出世や栄達とは描かず、「長く海外にありながら、日本のために尽くした」としています。また、長政と地元市民との関わりについても、日本側の史料には何も記録がないのにもかかわらず「シャムの人々に親しまれ、尊敬を受けた」と断定的に書くなど、長政像にはバイアスがかけられました。
1940年には、角田喜久雄が読売新聞夕刊に『山田長政』を連載し、「長政ブーム」の先駆けになりました。同小説はシャムを巡ってヨーロッパ諸国と日本が対立するという構図をとり、「山田長政が日本に使者を送ってシャムへの援軍を求めたのは、ヨーロッパの勢力に対抗して、(長政の時代に先立つこと100年以上前から馴染み深い国であった)シャムに日本の勢力を扶植するためであった」としています。さらに、シャムのソンタム王の妹のルタナ姫が長政に恋をするというロマンスが描かれているのも特徴です。角田が作詞をし、流行歌手、東海林太郎が1941年にテイチクレコードから出した「山田長政の唄」にも長政とルタナ姫の恋のエピソードが登場します。
1942年8月に『興亜』に掲載された中田千畝著「山田長政」では、長政は、当時日本社会に浸透していた「大東亜共栄圏」「八紘一宇」(「世界の多くの国々の人々を一家一族のように天皇が支配する」という思想)の実現を目指した人物として描かれています。
同じく1942年に出た沢田謙著『山田長政と南進先駆者』では、ソンタム王が、長政の説く「国体の尊厳」と「武士道の精神」に心打たれ、わが子ゼッタ王子の教育を長政に依頼したとし、白井喬二著『山田長政』も、同王が王子の教育を長政に任せ、なおかつ王女を長政の妻にしたとしています。シャム王が(王子や王女を託すほどに)長政から影響を受け、長政の思想(暗に「八紘一宇」等も示すと考えられる)や「日本精神」に感化されたとする筆致です。
戦後10年間は、長政はマスコミや言論界から姿を消しますが、その後、かつての「南進の英雄」像とは違った姿で再登場し、書物に加え、映画、舞台などで取り上げられるようになりました。
―1959年の大映映画「王者の剣」(長谷川一夫主演)
日タイ合作映画でしたが、日本でもタイでもヒットしませんでした。「日タイ合作映画ゆえ、日本人にもタイ人にもどちらにも受け入れられる長政像を描こうとした結果ではないか。初めてタイ側の目を意識した山田長政像がここで生まれたと言える」と同論文はコメントしています。
―1969年の山岡荘八の小説『山田長政』
長政がシャムに向かった動機を「限られた国土の中での過剰人口の問題が深刻化していた当時、海外に活路を求めたから」とし、長政の死については「日シャム貿易を妨害しようとしたオランダの陰謀による」としています。
―1980年の林青梧著『山田長政』
長政は英雄ではなく、「浪人、キリシタンなど海外移住を余儀なくされた日本人の生存のために悪戦苦闘せざるを得なかった悲劇の指導者」として描かれています。また、長政が殺されたのは、日本人がシャム人の反感を買ったからで、その背景には
「日本人はシャム人を見下し、彼らの習俗を馬鹿にして受け入れなかった」
「日本人は武威を誇り、シャム人が日本人に畏敬の念を抱いていると思いこみ、平気で彼らの上に君臨してきた」
「日本人はシャム人から搾取し、シャム人はいつまでたっても下積み」
などの原因があったと述べています。
これらは、太平洋戦争中の東南アジア諸国での日本人の行為や姿勢を想起させ、日本企業のタイ進出が進んだ1970年代前半に起こった反日運動が批判した日本人像とも一致。林は、山田長政を傲慢な侵略的移民者とみて、戦中・戦後の日本人の行為に対する反省として本書を著したのでは――との同論文の分析です。
―1981年の遠藤周作著『王国への道―山田長政』
遠藤は、長政の死について「日本人がもつ伝統的な2つの弱さが原因」としています。すなわち「土地の生活に順応できず、日本的な生活を送っていたこと」「力の法則に徹した合理主義や冷たさをもたず、情に流されることがあった」という2点です。
―1993年の窪田篤人脚本「明治座グランドロマン アユタヤの星」では、アユタヤの日本人たちは祖国へ帰れない無念さを抱いて死んでいったのではない。タイを心から愛し、溶け込むように生き、死んでいった日本人たちも大勢いたのだ――とし、ここに初めて「タイを愛した山田長政像」が登場しました。「1990年代は、日本においてアジア諸国の文化への関心が高まった時期であり、これが長政像にも反映したのでは」と同論文は考察しています。
土屋の論文は、「第2次世界大戦終結~現在まで」の教科書に関する分析は含みません。「山田長政」に着目して戦後の各時期の初等~中等教育の検定教科書を包括的に比較した研究例は筆者の知る限りなく、戦後の歴史教育の中で山田長政の扱いがどのように変わってきたか、あるいは変わっていないのか――についてここで検証することはできません。(但し、本連載「その1(2016年1月12日)」で触れたように、高等学校の歴史教科書に関しては、この30年間で「山田長政」の取り扱い頻度が減っていることが確認できました。)
本稿では、現在使用されている検定教科書から、山田長政についての著述箇所を2例紹介します。
―『詳説日本史B』(高校用)山川出版社(2012年3月検定)
■本文「朱印船貿易がさかんになると、海外に移住する日本人も増え、南方の各地に自治制をしいた日本町がつくられた。渡航した日本人の中には山田長政のようにアユタヤ朝(1351-1767)の王室に重く用いられたものもいる。」
■欄外の注「駿府出身の山田長政は、アユタヤ朝(タイ)の首都アユタヤにあった日本町の長で、のちリゴール(六昆)の太守(長官)となったが、政争で毒殺された。」
―『新しい社会 歴史』(中学用)東京書籍(2012年3月検定)
■本文「京都や堺(大阪府)、長崎などの商人や西日本の大名の中には、朱印船貿易を行う者が出ました。これにともない、多くの日本人が海外へ移住し、東南アジアの各地には日本町ができました。」
■欄外の注「山田長政(?-1630):駿河(静岡県)の出身で、アユタヤの日本町の指導者となりました。やがてシャムの役人になりますが、争いに敗れて毒殺されました。」
長政像に「海外雄飛の英雄」といった色づけは全くなく、事跡が淡々と述べられていることがわかります。
さて、次号では視点をタイ国に移し、「タイにおける山田長政のイメージ」について述べます。
齋藤 志緒理
Shiori Saito