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2016.05.30
齋藤 志緒理
今号から3回にわたり、タイ社会の中の上下関係のあり様について書きたいと思います。今号と次号では、丁寧表現や人称代名詞などに着目し、タイ語を切り口に考えてみましょう。
日本語には「尊敬語」「謙譲語」があり、動詞の「行く」がそれぞれ「いらっしゃる」「参る」に、「食べる」が「召し上がる」「いただく」・・・になるなど、動詞そのものの表現が変わります。タイ語では、基本的に動詞の表現は、一つの意味に対してひとつですが、丁寧語が存在するものも若干あります。
たとえば、「食べる」にはよりカジュアルな「ギン」と丁寧な「ターン」という二つの表現があります。「ギン」は日本語の「食う」ほどには砕けておらず、親しい間柄との会話では、男女や世代に関係なく使います。一方の「ターン」は丁寧語であり、尊敬語ではないので、「私は朝ごはんを食べました」という時にも使えます。
タイ語には日本語のような敬語の体系はありませんが、だからといって、言語にタテの人間関係が反映されないのかといえば、そうではありません。
まず、タイ語では、話者が文章の最後に、男性なら「クラップ」、女性なら「カー」という言葉を添えると、丁寧になります。言わば、日本語の「です」「ます」のような言葉です。タイ語の初歩を学ぶ際、男性なら「サワッディークラップ」女性なら「サワッディーカー」という挨拶表現を習いますが、「サワッディ」だけですと、ざっくばらんなトーンになり、目上の人やビジネス相手などに対しては失礼になります。
また、二人称として「あなた」(クン)のほかに「あなた様」(タン)という言葉があります。動詞そのものを尊敬語に換える日本語とは異なり、タイ語では相手を「タン」と呼ぶことで、敬意を表すことができます。この「タン」は三人称の敬称にもなり、その場合は「あのお方」という意味になります。
敬語的な用法として、もう一つ挙げられるのは、何かを質問する時に「~ですか?」と直接聞かない話法です。例えば「あなたはいつ日本に来るのですか?」と尋ねずに「あなた(様)がいつ、日本にいらっしゃるのか存じません」という風に、間接的に質問をすると、より丁寧になります。
タイ人は、初対面でも相手の年齢を聞くことがあります。それは、相手と自分のどちらが年上かを知り、その上で、今後の付き合いにおいて、適切な呼び方、振る舞い方をしたいという思いがあるからです。
タイ語では、「兄=ピー・チャイ」「姉=ピー・サーオ」ですが、実際に兄姉に呼びかける時は、「ピー」のあとにニックネームを付けます。例えば、ニックネームが「ニッド」というお姉さんであれば「ピー・ニッド」と呼びます。血縁関係のある兄姉だけでなく、学校や勤め先でも、自分よりも年長の人は「ピー+ニックネーム」(または「ピー+ファーストネーム」)で呼ぶのが一般的です。
一方、タイ語で弟、妹を表す言葉はそれぞれ「ノーン・チャイ」「ノーン・サーオ」ですが、自分の弟妹は、普通ニックネームだけで呼びます。自分より年若い友人や同僚を呼ぶのも、ニックネームだけでOKです。もっとも、「ノーン+ニックネーム」で呼ぶケースがないわけではありません。「ノーン」を冠して呼ぶと、年長者が年少者を慈しむような感情が表現されます。
この「ピー」「ノーン」という言葉は、それ単体で、見ず知らずの(=名前を知らない)年長者/年少者に呼びかける時にも、相手の性別に関係なく使えます。例えばレストランでは、自分より若いと思われる店員さんには「ノーン、メニューを下さい」などと依頼します。(相手が自分より年上と思ったら「ノーン」を「ピー」に替えて言います。)家族の呼称を血縁者以外に用いるのは「ピー」や「ノーン」だけではありません。例えば、「お父さん(ポー)」「お母さん(メー)」は、自分の親のみならず、友人の親を呼ぶ時にも使いますし、血のつながっていない年配者に「おじいさん」「おばあさん」と呼びかける際は、母方の祖父母に対するのと同じ「お祖父さん(ター)」「お祖母さん(ヤーイ)」という言葉を用います。
実は、タイ語の家族の呼称の内、「祖父・祖母」「叔父・叔母」には父方と母方で異なる呼び方があるのですが(「伯父・伯母」は父方・母方共通)、興味深いことに、血縁外に一般化して使われるのは、いずれも母方の呼称です。これは、家系が伝統的に女系継承されているタイにおいて、母方の呼称の方が社会に浸透していることの表れと言えましょう。
筆者のタイ留学中の話ですが、同寮生に、地方の高校を休職してチュラロンコン大学教育学部の修士課程で学ぶ英語教諭がいました。筆者よりも年上でしたので、常日頃から「ピー○○」と呼んでいました。その寮生が夏休みで地元に帰っていた時、日本人の留学生仲間と二人で、その地を訪ねたことがあります。その寮生は、自分の高校の教え子たちにも声をかけ、我々を隣県の遺跡見学に連れて行ってくれたのですが、道中、高校生たちは筆者のことを終始「ナー」(母方の叔母と同義)と呼びました。当時筆者は20代だったので、年の差は10歳程度。「ピー」と呼ばれるかと思いきや、まさかの「ナー」で、急に自分が年をとったような気がしたものです。
タイ人は実際の親密さの度合いに関わらず、こうした「疑似家族的」な呼称を使って、周囲との人間関係を構築しています。それらの呼称は「長幼の序」の概念を内包しているため、話者は自ずと対面する相手との上下の関係性を意識することになるのです。
ところで、二人称で「あなた」を意味する「クン」は、その後に相手の名前を呼べば、日本語の「~さん」と同じような敬称になります(「クン・ヌッチャリー」は「ヌッチャリーさん」)。
「クン」はフォーマルで、相手に対して距離を置いている感じがします。ビジネスシーンなどで、タイ人と対等に付き合いたい場合は、向こうが年長でも「ピー」を使わず、あえて「クン」で呼び合うという選択をすることもあるでしょう。通常「クン」の後にはファーストネームが来ますが、日本人ビジネスパーソンは、仕事のし易さや通りの良さを考え、「クン・タナカ」のように名字にクン付けで呼んでもらうことが多いようです。
さて、次号では、ちょっと複雑なタイ語の一人称について紹介し、そこから垣間見えるタテの人間関係について考察します。
齋藤 志緒理
Shiori Saito