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2016.08.22
齋藤 志緒理
本テーマ最終回の今号では、タイ人の深層心理の中にある「分際を知る」という意識について考えてみます。
タイ社会には、インドにおけるカーストのような身分制度は存在せず、結婚や就職などで出自が制約となることはありません。もちろん現実的に、個々人の立身出世にあたって、出身家庭の環境や経済力による違いが生じることはあります。また、結婚に際しても、似通った教育レベル(最終学歴)の者同士が結ばれる傾向が強いのですが、固定的で、世襲される「身分」が足かせとなり、相思相愛の男女の婚姻を阻むようなことはありません。そのことを、まず押さえておきたいと思います。
人間相互の関係性を示す概念に「パトロン・クライアント関係」(「親分・子分関係」)というものがあり、歴史学や社会学、文化人類学、政治学など様々な学問領域で研究されています。端的に言えば、パトロン(親分)がクライアント(子分)を保護し、恩恵を与える代わりに、クライアントはパトロンを支持し、協力するという互恵関係です。
この「パトロン・クライアント関係」は、タイのタテ社会の構造を説明する際にも用いられます。「親分」は「子分」に対して、慈愛の念や温情を持って接し、「子分」は「親分」に恩義を感じて忠義を尽くす――というのがその基本的な構図です。「親分」には人徳や威厳が、「子分」には親分への奉仕の姿勢が求められます。この二者関係は、実生活では「上司と部下」「教師と生徒」「先輩と後輩」など、色々な組み合わせがあります。
日本社会でも、このような「情」に根差した上下の人間関係が構築されることがありますが、タイに比べると、公私の別を明確にする傾向があると感じます。
例えば、「大学の指導教官の資料整理を手伝うため、ゼミの学生たちが休日に教授宅に行く」とか、「部下が上司の引っ越しを手伝う」などの行為は、今日の日本では考えづらいでしょうが、タイでは珍しいことではありません。「子分」は「親分」の依頼に馳せ参じ、「親分」は「子分」に目をかけ、庇護することでそうした日頃の奉仕に応えるのです。
タイ社会では、人間関係の縦軸の下位にある者が上位者に拮抗し、その立場を脅かすような行動に出ることはあまりありません。むしろ、既存の秩序の中での己の「分際」を知り、その位置にふさわしい振る舞いをすることにより、安心感・安定感を覚える――という行動様式が一般的です。社会的立場が上位の者が下位の者に接する時も、それなりの態度や風格が必要となります。
こうした性向の社会的背景には何があるのか――少し視野を広げて考えてみますと、次に挙げる2つの要素が関係していると思われます。
(1)実質的な「革命」がなかったこと
アユタヤ王朝期(1351-1767)、第8代トライローカナート王(在位1448-88)の治世で、サクディナー制と呼ばれる身分制度が完成し、王族を頂点とする支配階級と被支配民を明確に分離するようになりました。この制度は18世紀半ばまで実質的に機能し、公的には19世紀末頃まで存続しました(赤木攻「タイにおける官僚政治の社会・文化的基礎試論」『アジア研究』Vol.27、アジア政経学会、1980年10月)。
現ラタナコーシン王朝のラーマ7世時、1932年に立憲革命が起こり、絶対王政から立憲君主制への転換はあったものの、その後も支配者層は基本的に権力を温存し続けました。
また、他の多くのアジア諸国は、西欧列強による植民地支配を経験しましたが、タイは植民地化を免れたため、外的圧力によって統治体制が壊されることもありませんでした。
すなわち、秩序が根底から覆されるという事態をタイの人々は歴史的に、少なくとも数世紀の間、経験していません。為政者層が半永久的に維持されるという現実の積み重ねの中では、社会における上下関係は動かし難いものに受けとめられ、その関係性に挑むような行為は起こしづらかったのではないでしょうか。
(2)仏教の影響
タイ人の思想的根幹を成す「上座部仏教」には、「現世の幸福は前世にいかに徳を積んだかにより決まる」という考え方があります。経済的、社会的に恵まれない人々にとっては、この考え方は「今自分がいくら努力をしても、現況を変えるのは不可能」という諦めにつながりがちです。そして、現世での階段を上ることには野心を抱かず、むしろ来世での幸福を願ってタンブン(寄進・布施)行為に励むようになります。
こうした指向性は社会の中の既成の上下関係に対しても作用し、「現況を変えられないのであれば、あがいても仕方がない。長いものには巻かれ、波風を立てない生き方を選んだ方が賢明」という考えが大勢を占めることになります。
上述のようなタイ人の思考・行動パターンに一石を投じた人がいます。タクシン・チナワット元首相です。タクシン氏は不正な蓄財などで、その罪を問われ、現在海外亡命中です。妹のインラック氏の首相在任中にタクシン氏の恩赦帰国を巡る法案が出され、それに端を発した政争が、現在も尾を引いています。
タクシン氏の施政は「ばらまき」等と批判されるところでもありますが、米の高値買い付けや、30バーツ医療制度など、それまであまり顧みられなかった地方の農民層や都市の困窮層などに手厚い政策を繰り出したのは事実です。彼らは、タクシン元首相によって初めて「目を向けられる」ことで、政治的に覚醒したといえます。そして彼らが権利を主張する運動が大きなうねりとなって、既得権益層から成る反タクシン派と相克しています。
タクシン派・反タクシン派の攻防には、多くの論点があり、一概に断ずることはできませんが、タクシン旋風によって権利に目覚めた人々が、これまで自分たちを縛ってきた「分際」の概念を越えて一歩を踏み出している・・・という一面があります。
この流れは一過性のものなのか、あるいは、実際にタイ人の「分際を知る」という従来の意識に大きな変化があったのか――気になるところです。
齋藤 志緒理
Shiori Saito